351号~376号
376号 2024/11/2
最終号:1年間ありがとうございました。
1年間にわたり、「中越大震災20年メールマガジン」をご愛読いただき、
誠にありがとうございました。
今回の配信をもって、このメールマガジンの最終号とさせていただきます。
私の思いつきで試行錯誤の中始めたメールマガジンは、
最初のうちは誤配信を繰り返し(配信時間の間違い、事務連絡メールの誤送信、順番のミスなど)、
冷や汗をかく日々の連続でした。慣れたと思った矢先にミスをしたり、油断すると失敗をしたり……。
当初はメールマガジンサービス「まぐまぐ!」を利用する予定でしたが、
使い勝手があまりよくなく、不要なサービスに登録されてしまったり、
登録者に関係のない営業メールが配信されたり、
事務局で登録者を自由に追加できなかったりと不都合が多かったため、
最終的には普段の業務で使用している「さくらレンタルサーバー」のメーリングリストを使用し、
すべて手作業で登録・配信することにしました。
Gmailの予約配信機能(送信日時の設定機能)には本当に助けられました。
特に最初の3か月間は、配信原稿を集めることに大変苦労しました。
当初は「36人の執筆者に1人10通ずつお願いすれば1年をなんとか持ちこたえられる」
と考えていましたが、そう簡単にはいきませんでした。
皆さん快く執筆を引き受けてくださったものの、なかなか原稿が届かず……。
そこで、さまざまな人脈を駆使し、かなり無理を言って多くの方々に執筆を依頼しました。
手元の原稿ストックは常に枯渇状態で、胃が痛む日々を過ごしていましたが、
今となっては良い思い出です(その一言で済ませたくはないのですが、笑)。
執筆者の皆様(総勢56名)には、心より感謝申し上げます。
私が最初の読者になれたことは、非常に贅沢であり幸せなことでした。
予定していた1年を無事にやり切ることができ、ほっとしております。
存外に多くの方からお褒めの言葉をいただき、大きな励みとなりました。
中越はすでに中越大震災から21年目を歩みだしました。
日本各地では自然災害が発生・多発しており、被災経験地は年々増加し、
時間の経過とともに各地での「周年」の機会も増えていくでしょう。
我々の「中越大震災20年プロジェクト」の足跡が、そのような機会に少しでも役立てば幸いです。
【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 事務局長 諸橋和行
375号 2024/11/1
羽賀友信さん かく語りき「第十一話 エピローグ 復興と国際協力の未来形」
必ず災害が起きたら、やっぱりその洗い出しをして次に手渡す。
震災復興と戦災復興って同じなんです。
長岡は戊辰戦争で戦災復興を成し遂げ、
第二次世界大戦の長岡空襲からも戦災復興を成し遂げた。
もともとそういう素地があり、米百俵の文化もあるんです。
それが中越地震の震災復興にもつながっているんです。
内閣府が取材に来て、何で20年前にこんなものを考えついたんですかって言うから、
僕はこんな遅れている地域はないと思って取り組んできたんだけどと返した。
国際スタンダードに近づけていかないと、やれない時代が来る。
国際化が進めば多くの外国から入ってくる人が増え、
定住化の中で、日本人と同じ課題が必ず出てくる。
やっぱり協働型の支援センターがいるんですね。
日本人相手よりもはるかに許容範囲を広げて、壁を立てないように。
これからは長岡市も国際協力の未来形を作っていかなければ。
パートナーとして頼りになる外国人がいるという
地域社会を目指していかないといけません。
【執筆】長岡市国際交流センター長 羽賀友信(第11話)
新潟県中越大震災20年プロジェクト事務局編集
374号 2024/10/31
羽賀友信さん かく語りき「第十話 多文化共生」
必ず災害が起きたら、やっぱりその洗い出しをして次に手渡す。
これがより良き社会のために必要な防災の基本になってくる。
暗黙知として僕らの体験だけにしてはいけないっていうのはすごく大事なことですね。
やっぱり生き物なんです、災害はね。
だから日本のモデルに間違いなくここはなったんですよね。
ただやっぱりあのときに神戸が10年の空白をつくらないで、
きちっと総括して全国に課題共有してくれたら、かなりうちは楽だった。
外国人問題って何が特徴かというと、人口動態が一気に変わるんですね。
政治で変わる、制度で変わる、それから国内状況で変わる。
だから支援ってよく勘違いされるんだけど、
言語を喋れる人を集めてそれをセンターとして体裁を整えて終わりみたいなのが
今の日本の風潮。そんなの嘘っぱちだよ。
多文化共生っていう概念を深く理解しておかないといけないんです。
多様化が対立を生むのか、それとも相乗効果を生むのか。
違うことを違和感にせずに、納得できる形にしていくことですね。
【執筆】長岡市国際交流センター長 羽賀友信(第10話)
新潟県中越大震災20年プロジェクト事務局編集
373号 2024/10/30
羽賀友信さん かく語りき「第九話 やさしい日本語の重要性」
やさしい日本語を弘前大学の佐藤和之先生が作ってはいたけども、
神戸(阪神淡路大震災)では使われてないんです。
ここ中越で初めて使ったんですよ。
日本人は使っちゃいけない単語を必ず災害で使っていて。
これ絶対広めてほしいんだけど、「大丈夫ですか」って聞くでしょ。
でもパニックになった人は、オウム返しに「大丈夫です」って言ってしまう。
抽象的な概念は、脳がパニックになったときは滑ってしまって、
言葉は理解できても心が反射できない。
だから災害時の喋り方っていうのはやっぱり具体性を持ってしないと。
具体的な言葉ならば反応ができる。
文語体の日本語で喋られてもわかりませんよ。
やさしい日本語にひたすら近い口語体で喋らないと駄目ですよって。
今は津波のときは「津波、にげて」って言いますよね。
あれ、うちらが挙げた提言から始まってるんです。
だから災害時にニーズを引き出すときも、普段の日本語とひとくくりにしては駄目で、
「体調はいかがですか」って言われたら即答しますよね。
「悪いです」「よくないです」となれば、
「どこか痛いですか」「薬がいりますか」「ドクターに診てもらいますか」と
すぐに話が核心に入っていきます。
「大丈夫ですか」だと「大丈夫です」で終わっちゃう。
最初はうちも巡回に出したら、大丈夫ですって終わって帰ってるんですよ。
全然大丈夫じゃないんだよ、それが。
【執筆】長岡市国際交流センター長 羽賀友信(第9話)
新潟県中越大震災20年プロジェクト事務局編集
372号 2024/10/29
「中越センター」の立上げ
長岡への移動の車中で、震災当日の様々な体験談を聞かせてもらった。
中には、7月の水害支援の恩返しとして、
10月20日に発生した兵庫県豊岡市の支援に入ろうとしたが中越地震が発生して、
とんぼ返りで新潟に戻ってきた人も。
災害の経験が、被災地同士をつなぎ、支援を生み出す力になっていることを実感した。
「中越センター」の最初の課題は、余震が多発する中、
赤紙・黄紙(応急危険度判定で危険・要注意)が貼られた家に
ボランティアが入って活動してしまう状況をどうするか、だった。
赤紙が張られた家にも住民は住み続けているので、災害VCで活動を制止しても限界があった。
他方、被害判定調査の前に、ボランティアが屋内の片付けや応急処置をしてしまうと、
罹災証明書が出なくなり、支援や給付が受けられなくなる事態も想定された。
活動中に余震で家が壊れて怪我人が出たり、被災者から訴えられたら、
ボランティア活動の機運は一気に冷え込み、活動の制約も厳しくなってしまうだろう。
とはいえ正解も無いし、市町村の災害VCに判断を任せて責任を負ってもらうのもどうか。
議論の結果、中越全体で屋内片付けのガイドラインを作り、
新潟県社協に通知してもらう形で、各市町村に活用してもらうことになった。
今思えば「災害中間支援」の先駆けだったかもしれない。
私自身は、ただ新潟・中越の人たちの人をつなぎ、
問題を解決していく力に驚かされ続けるだけだった。
神戸に戻ってすぐ高熱で寝込んだが、あれは知恵熱だったかもしれない。
【執筆】関西大学社会安全学部・大学院社会安全研究科 菅 磨志保(第3話)
371号 2024/10/28
新潟県庁から長岡へ
電話の主は、同年7月に発生した新潟・福井集中豪雨の水害ボランティアセンター
(以下VC)でお世話になった方だった。
頼りにしてくれたのだから役に立つ情報を、と思ったものの、
相手が語る苦悩をただ聞くことしかできなかった。
とりあえず避難所の開設から閉鎖までのプロセスをイメージできるような資料を探してFAXしたが、
あの混乱の中、資料が役に立ったとは思えない。
あと一日で研修が終わるという日になって、「明日から新潟県に行ってこい」という指示が出た。
当時、被災地から離れた新潟県庁での災害対策本部運営の難しさが課題になっていたそうだが、
新潟市内に設定された「災害ボランティア本部」でも同じことが課題になっていたようだった。
何の準備もない状態で役に立てないと困惑したが、上司も私の不器用さを理解していて
「災害ボランティア関係だけ対応してこい」とのことだった。
しかし新潟県庁に行ってみると課題山積だった。
避難所から区長を経由して被災市町村から上がってくる情報(区長さんは我慢して問題ないと言う)と、
災害VC経由で上がってくる情報(現場でボランティアが見聞きした被災者の困りごと)に
ずれが生じており、組織的な交通整理が必要になっていた。
また被災地から離れた「災害ボランティア本部」の限界を補う現場に近い支援拠点の設置も必要だった。
ただ、4カ月前に水害対応を経験した支援者が再結集していたこともあり、
課題は次々に対処されていった。
1両日の間に、新潟県の「災害ボランティア本部」の「出先」となる「中越センター」を
長岡市に設置すること、場所は青年会議所が提供すること、
その拠点の機能と組織体制がどんどん決まっていった。
私も「中越センター」の担い手となるメンバーの車で長岡に移動することになった。
【執筆】関西大学社会安全学部・大学院社会安全研究科 菅 磨志保(第2話)
370号 2024/10/27
当時を振り返って(その2)
1995年阪神淡路大震災でもボランティアで多くの被災者の方と関わり、
その中で、まさか神戸で、という言葉を何度も耳にした。
中越大震災でも、まさか新潟県で、という人々の驚きの声も聞いた。
地殻変動の著しい日本列島において、地震から免れている地域はない。
神戸周辺においても中越周辺においても歴史を遡れば、
何度も繰り返されていることが記録に残っている。
ただ、自然と人間個人のタイムスケールが異なるだけである。
地震やそれに伴う地殻変動は現在の地形にも表れている。
それは一方で人間に対する恵みの象徴でもある。
信濃川流域は縄文時代中期には国宝でもある
火焔型土器が先史以来の自然の恵みを示している。
当時から、この地域は先進的な文化を有していた。
上越教育大学に勤務当時、自分は信濃川火焔街道博学連携プロジェクトに取り組んでいた。
これは、信濃川中流域の長岡市、十日町市、津南町(2002年当初は、旧中里村も)
信濃川火焔街道連携協議会と連動して、この流域の複数の博物館と小学校が1年間かけて、
主に「総合的な学習の時間」に地域の縄文時代について取り組むものであった。
下条小学校金子和宏教諭や新潟県立博物館山本哲也学芸員(共に当時)の力が大きかった。
また、この顧問として小林達雄元館長と共に
自分も関わらせてもらったことが大きな学びとなった。
このプロジェクトが始まって2年目に中越大震災がこの地域を襲った。
当初被災地だけに、11月の縄文フォーラムという発表会は取止めることも考えられた。
しかし、実施したいという子供たちの熱意に押されて、
学校教員も博物館学芸員もその実現に取り組んだ。
結果として、子供たちの明るさ、元気さに大人たちも勇気づけられたと言える。
これは中越大震災の時だけでなく、その後の各地での災害後においても、
子供たちの頑張りが大人たちを前向きにさせた報告が多くみられる。
【執筆】滋賀大学大学院教育学研究科 高度教職実践専攻 藤岡達也(第2話)
369号 2024/10/26
当時を振り返って(その1)
中越大震災が発生した2004年は、新潟県だけでなく、
国内外の人々にとっても自然災害に対する認識が変わらざるを得ない年であった。
ここでも何人かの方が記載されている、同年7月に発生し、県内だけでも16名の
犠牲者(福島県を合わせると17名)を生じた新潟・福島豪雨の衝撃も大きかった。
この年は、その後も福井豪雨など、国内で10件を超える近年まれに見る大規模な水害が発生した。
また中越大震災の約1か月後に生じたスマトラ沖地震・インド洋津波では
犠牲者数が20万名を超え、その翌月2005年1月、兵庫県神戸市で開催された
第2回国連防災世界会議が世界中から注目を浴びることにつながった。
同時に2005年より,日本から提案された「国連持続可能な開発のための教育の10年」が
「兵庫行動枠組」(2015年第3回国連防災世界会議で採択された「仙台防災枠組2015-2030」
に引き継がれている)と連動して実施された。
これらを反映して新潟県内でも見附市(当時:松井謙太学校教育課長)等をはじめ、
防災・減災をユネスコスクールとして取り組んでいる学校も数多く見られた。
現在のSDGs11のゴール「住み続けられるまちづくりを」は
災害に強いまちづくりであることも実感する。
当時、自分は上越教育大学に勤めており、被災地の学校からも要望があったため、
学生ボランティアの活動を大学として組織的に取り組んだ。
後になって考えると新潟福島豪雨の教訓から中越大震災、
そして2007年の中越沖地震での学校ボランティアは、一連のものであったことが理解できた。
学校防災の在り方を根本的に捉え直す機会となったのは、述べるまでもない。
さらに中越大震災では自衛隊高田連隊の方に被災状況を現地で案内いただき、
中山間地における大規模な斜面崩壊、崖崩れの想像を絶する状況に言葉がでなかった。
1995年阪神淡路大震災を経験した時は、沖積平野における断層型地震の凄まじさを痛感したが、
中山間部における活断層型地震の規模も中越大震災と名付けられるほどの自然の営力を目の当たりにした。
しかし、その中でも自然と共に生きていく多くの人達の強さと、人と人とのつながり、暖かさを実感した。
【執筆】滋賀大学大学院教育学研究科 高度教職実践専攻 藤岡達也(第1話)
368号 2024/10/25
震災復興支援課 外伝(その2) 復興基金財団設立 異聞
2005年1月4日「御用始め」の日。
1月1日付けの異動辞令が交付され、震災復興支援課が始動。
とは言え、当然ながら先の展望は全く見えない。
まずは市町村、振興局、北陸整備局や内閣府防災担当などへの挨拶回りで、
復興支援課の存在をアピール。
内閣府の担当者や防災大臣の視察対応などで、先の心配などする余裕もなく、
あっという間に一月が過ぎていった。
その頃、当初、災害対策特別立法の制定を国に要望していた泉田知事が、
復興基金創設要望に舵を切り、基金規模3000億、
事業規模600億円のメニュー策定を財政課に指示した。
全庁を挙げた突貫作業で作り上げたメニューを財政課の担当が知事に説明した時、
知事は「ご苦労様でした、これでいいです。でもこれはやりません」と言ったとか。
この話は伝聞であるが、苦労した財政担当の放心状態から察するに多分事実だったのだろう。
かくして、3月1日に復興基金財団が設立される。
このことはその後の復興支援に向けて大きな転機となった。
つまり、基金の獲得もさることながら、
基金事業を県予算から切り離して財団に委ねることにより、
財政課の予算査定や県議会の予算議決からも切り離すことになり、
迅速かつ柔軟な事業実施が可能となった。
言い換えれば、財団理事長となる泉田知事のほぼフリーハンドと言ってもよいだろう。
復興支援課は基金財団や復旧・復興本部会議を所管することとなり、
県庁内での立ち位置も定まってきた。
財政課が取り逃がした600億が復興支援課にタナボタとなり、
職員数も基金事務局への派遣県職員や財団プロパー職員を含めて20人と倍増し、
県庁内の一室に引っ越すこととなる。
課の発足から3ヵ月での「すみっこぐらし」からの脱却となった。
【執筆】元新潟県県民生活・環境部 震災復興支援課長 丸山由明(第11話)
367号 2024/10/24
震災復興支援課 外伝(その1) 思いがけないクリスマスプレゼント?
2004年も12月になり中越はまもなく雪の季節を迎える。
「雪が降る前に」そんな思いで63団地3,460戸の仮設住宅の建設が急ピッチで進んでいた。
12月15日に全戸完成し、入居がほぼ完了する頃、
待っていてくれたかのように雪が降り始めた。
その冬は中越でも数年ぶりの豪雪となり、被災地は真っ白な雪に覆われた。
その頃、私は市町村課の本来業務に追われていた。
翌年度の予算編成や人事異動に向けて夜なべ仕事が多くなる時季なのだ。
その夜も一人でひたすら職員の人事異動調書を作成していると、
突然、企画課の鈴木主幹がやって来て「丸山さん、大変なことになった」と言う。
「何ですか?」と聞くと「震災復興支援課が出来るそうで、
私が課長で、あんたが補佐だ」と言う。
「はぁ、そうですか、時節柄ありそうな話だなぁ」と他人事のように思えた。
後日、正式に出た異動内示によると震災復興支援課の新設は2005年1月1日付け、
総勢10人とのこと。県庁内では最小の課だったかも知れない。
さて、時間がないぞ、御用納めが迫っている。
急いで二つの課に少しずつ動いてもらってすみっこに場所を確保し、
庁内で余っていた10人分の机や書庫をかき集めて、なんとか格好をつけた。
異動辞令は1月1日付けだが、実際の交付は休み明けの4日になる。
年末年始は子供たちを連れて妙高でスキーと温泉なのだ!
来年のことは来年考えよう。かくして激動の2004年が暮れていった。
【執筆】元新潟県県民生活・環境部 震災復興支援課長 丸山由明(第10話)
366号 2024/10/23
中越地震から30年後へジャンプする、明日がその第一歩!
2024年10月23日、中越大震災から20年目が経ちました。
震災からどのように復興するのか。
その復興計画は、震災から立ち上がるホップの3年、
復興を本格化するステップの3年、
新たな発展を目指すジャンプの4年の10年計画で進めるとしました。
その目標は、復興に失敗して10年後にこんな中越になってはいけない地域像でなく、
10年後にこんな中越にしたい地域像を掲げて、
新潟県・被災市町村と被災者の皆さんが力と知恵を出し合って取り組みました。
その行政と被災者の中間で復興支援をさせていただいたのが、
新潟県中越大震災復興基金で設立された中越防災安全推進機構でした。
行政の道路整備や集落整備などの公共事業と住宅再建など
被災者一人一人の復興事業はほぼ6年で完了しました。
この復興はまた、平成の大合併で多くの被災自治体が長岡市となった
新しい行政体制の中で、さまざまな地域づくりが発展期の取り組みでした。
被災が厳しかった集落には若い復興支援員がかかわり続け、
被災された皆さんとともに、人口は減っても多様なにぎわいが取り戻されていきました。
「震災のバネ」という考え方があります。
それは阪神・淡路大震災(1995)の復興から出されたもので、
不幸な出来事の震災だが、震災を被ったがゆえに
震災がなければ全くできなかった地域づくりができた。
それは“震災をバネにして新たな地域社会づくりに取り組めたからである”
という考え方でした。まさに震災から10年後の中越もそんな姿でした。
震災を契機に多くのボランティアが中越を支援いただき、
その縁でその後も繰り返し中越を訪れてくださいました。
そして、中越大震災からの20年目は復興支援から地域支援として、
新たに首都圏などから大学生が中越に長期滞在して、
さまざまに地域に学び体験学習する“いナカレッジ”の取り組みが本格化し、
さらに卒業後に移住され、何人分かの仕事や活動に取り組み、
結婚されて、お子さんも生まれて・・・・。
日本の全人口が減少する時代になった中越地震の20年間。
その傾向が高まる次の10年間。
“震災のバネ”を持っている中越では、明日から始まる10年間が、
改めて日本の地域モデルとなる中越大震災30年に向けての第一歩です。
私ども中越防災安全推進機構も地域の皆さまとともに歩ませていただきたいと思っています。
このメルマガは多くの皆さまとともにこの1年間、毎日発信できました。
でも発信しきれなかった多くの投稿をいただいていますので、
このメルマガを「続メルマガ」として、しばらく延長します(1週間程度)。
皆さんとともに、30年目に向かってジャンプしましょう!
ありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。
【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第19話)
(新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)
365号 2024/10/22
現在の取組と意識
現在はガス管、水道管は地震に強いような管を使うようになっていると思います。
災害があったところに近い事業者が、水道であれば近い水道局の方たちが応援に行くという
ネットワーク的なものも確立されてきているのではないかと思います。
意識が変わったのが2つあって、1つはガソリンの給油をこまめにすること。
中越地震のとき車の中で避難をした方がたくさんいらっしゃって
我が家も車に避難をしたんですけども、
寒い時期だったので当然エンジンをかけてエアコンをつけないと外は寒くて。
でもエンジンをかければかけるほどもちろんガソリンが減るので。
減ったらガソリンスタンドに行くんですが
ガソリンスタンドも長蛇の列ができていたという状態だったので。
今までは目盛り1つ残って「まだいける、まだいける」なんて言って
空(から)に近づいてやっと給油していたんですけど、
半分減ったらこまめにガソリンを入れるっていうのが1つ。
あとは屋根の雪をあまり溜めないように意識は変わりました。
もし雪が降って1月、2月に屋根の上にたくさん雪がある状態で
同じような強い揺れが来ていたらもしかしたら家がどしゃっとなって、
我が家だけではなくて、家がつぶれたという人ももっともっといたと思うんですよね。
中越地震の時はたまたま10月で雪がなかった。
それで、つぶれなかったっていうのはありましたね。
そういった中で家の頭を軽くしておいたほうが安全だなという意識があるので、
雪を溜めないという風に意識が変わった。
本当に水がないと生きていけないっていう。改めてわかった。
普段から水と食料の両方を、あまり大量には難しいかもしれないんですけど
1日、2日分ぐらいは準備しておかなきゃいけないんだなというのは思いましたね。
あとはやっぱり正確な情報を避難所の町内の方からきちんと行政、市に伝えられる状況というか。
常日頃から情報伝達の手法をしっかりしていることが大切かなと思います。
とにかく正確な情報を行政は知りたいというところなので。
普段から町内会さんにもそういった働きかけをしておいた方がいいんだろうなと思いますね。
【執筆】 おぢや震災ミュージアムそなえ館 堀澤淳司 インタビュー(第9話)
(中越地震発生当時 小千谷市ガス水道局主任)
364号 2024/10/21
地域復興支援員とは(最終回)
私は、現在も地域づくり支援員(集落支援員)として小千谷市から派遣され、
地域担当を行っているが、最後に復興支援員も含めた支援員について考えてみたい。
おそらく広義ではいま話題の地域おこし協力隊も含まれると思われる。
研修でも度々聞かれるが
「支援員とは伴走者であり、プレーヤーは地元住民。
そのためのきっかけづくりや話し合いの場を設け、いかにその気にさせるか」
これに尽きる。
だが、最前線にいる支援員は地元とのトラブルは避けたいため、
しばしば、都合の良いプレーヤー(事務員)として使われてしまう。
さらに多くの場合、常に不安定な立場にあり、若者は次のことを考えてしまう。
これは私見かもしれないが、そうならないようにお互いの意識を変えることが望まれる。
(おわり)
【執筆】小千谷市にぎわい交流課 地域づくり支援員 石曽根 徹(第12話)
元小千谷市地域復興支援員(小千谷市産業開発センター所属)
363号 2024/10/20
宇宙飛行士毛利利衛さんの講演
小千谷市は、平成16年5月12日に市制施行記念式典を開催した。
その記念講演会の講師は日本人初の宇宙飛行士 毛利利衛さん。
その演題は「宇宙からの贈りもの 未来へのわが挑戦!」だった。
10月23日の大地震、それが宇宙からの贈りもの?
未来への挑戦が震災対応! とは思いもよらなかった。
震災からの復旧・復興に否応もなく向かい合うことに。
「宇宙からの贈りもの」で毛利さんは、
宇宙での生活は環境対応のため、トレーニングが必要と書いている。
地上では、自分と家族を守る災害予防、
避難所運営訓練などが必要だということなんですね。
【執筆】中越市民防災安全士会 関田孝史(第6話)
(震災発災当時は、小千谷市職員 議会事務局)
362号 2024/10/19
あれから20年 食の備えは変わったか「備えあれば」
中越地震のころは、食料の備蓄は3日分と言われましたが、
今は最低3日分、推奨7日分に変わりました。
また、非常食だけでなく、ローリングストックで買い置きしている食品も
対象になるため、備蓄量は増加しているのではないでしょうか。
一方、家庭によって量は異なり、1日分から7日以上と違いがあるようです。
大規模な災害が発生すると、見直しの機運が高まりますが、
普段は忘れがちになるようです。
防災の話題が「災害は備えあれば憂いなし」で締めくくられることがあります。
この格言のもとは左丘明(さきゅうめい)が「春秋左氏伝」に
「安きにありて危うきを思う。思えばすなわち備えあり。備えあれば患えなし。」
と紀元前480年頃に記したと平井敬也著の
「天災人災格言集,興山舎,2012」で紹介されていました。
すでに2500年間、使われているようです。
中越地震での被災生活では、備蓄量も買い置き量も少なく、
自らの対策不足を恨めしく思いましたが、
そのとき「備えた分だけ 憂いなし」ではないかと感じました。
必要数を考え、少しずつ備えを増やしていく必要がありそうです。
【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第15話)
特別配信 2024/10/18
10.23まであと5日となりました。
中越防災安全推進機構では、BSN新潟放送と協力して、
10月23日に以下の取組を行います。
◆①BSNラジオ 中越メモリアル回廊 リレー中継
BSNラジオレポーター船尾佳代さんが中越メモリアル回廊の4施設をまわって中継!
中越地震から20年をむかえた各館の様子をBSN番組内で紹介します。
<中継予定(各5分程度)>
1) きずな館「石塚かおりのブランニューデイ」内中継 8時40分頃~
2) そなえ館「近藤丈靖の独占ごきげんアワー」内中継 11時7分頃~
3) おらたる「遠藤麻理の四畳半スタジオ」内中継 14時35分頃~
4) きおくみらい「遠藤麻理の四畳半スタジオ」内中継 15時45分頃~
◆②YouTube 特別番組生配信 新潟県中越地震の発生から20年 その記録と記憶、教訓を伝える
10月23日(水)16 時から18時15分
長岡震災アーカイブセンターきおくみらいをスタジオにして、
YouTubeチャンネルで特別番組を生配信します。
MC:船尾佳代 BSN ラジオレポーター フリーアナウンサー)
ゲスト:中林一樹(中越防災安全推進機構 理事長) ほか
YouTube チャンネル URL
https://youtube.com/live/aNm24Y_guGU?feature=share
◆追伸 ブラックアウト大作戦 もしもの停電を体験しよう!
明日10/19より5日間
ブラックアウト大作戦がはじまります。
ぜひご参加ください。
https://nagaokablackout.jimdofree.com/
361号 2024/10/18
避難所での体験②
私は震災直後、知人家族と一緒に道路で寝起きした。
知人宅は築後間もない頑丈な家であった。
外見は被害が見えなかったが、エレベーターが故障。
壁や階段に亀裂が多く入っていた。
車庫内は万が一大きな揺れで家が崩れたらと考え、車庫には入らず、
みんなで道路に段ボールや持ち寄った毛布など敷き、夜を明かす。
絶え間なく揺れが続く。
寒さが凍み、目を閉じ少し眠ろうと話し合って目を閉じるも眠れない。
容赦なく大小の揺れが今夜も続く。
数日後、テニス仲間に出会った。
お互い無事を分かち合い、怖かったねえと慰めあう。
避難生活を問われ、現状を話す。
彼女の家族は23日の夜、直ぐに総体に避難できたとのこと。
会った翌日に再度連絡があり、
「総体に空きが出る、来ないか」と有難いお誘い。
聞いてみると、家族の老夫婦が総体での避難生活が困難となり、
別の場所へ移るとのこと。私は喜んで申し出を受けた。
友人に感謝した。泣きそうになった。
持つべきは友と。
寒さに震え、揺れに身が縮み辛かった生活。
道路や車での生活から大勢が身を寄せている総体。
やっと安心して眠れると思ったのは束の間であった。
夜になり、見知らぬ大勢の人が夜を過ごす時間になると
畳一枚のスペースにごくわずかな手荷物を置き、
貴重品は抱きしめて横になる。
夜になっても明かりは灯り、
咳、話し声、ラジオから漏れ出る音などが気になる。
何よりもウトウトすると、後方や脇から手が伸びてきて、
貴重品バッグを引っ張る人がいる。
怖い!! 目は閉じていても眠ることができない。
こんな夜が3日続いた。
避難者が少なくなる昼間に眠るしかないか・・・。
1週間ほどすると昼間の避難者は減り、家の片づけに行き、
幼児を抱えた方々や高齢者が多く残るようになっていた。
トイレ問題。最初は流していた。
水道が止まっているため、プールの水をバケツに汲み、
「ひしゃく一杯の水で流してください」の張り紙。
その後、下水管破損が判明し、注意書きが変わった。
バケツに黒ポリ袋をかけ、新聞紙(四つ折り)を敷き、用を足す。
終わると汚物に新聞紙を被せ、ポリ袋の口をしっかりと結び、
トイレ内の汚物入れに入れる。
汚物入れはトイレ内に大きなポリ袋が用意されていた。
この時は気付かなかったが、
運営された行政や社協の方々のご苦労はいかばかりであっただろうか。
被災者目線でしか周りが見えてなく、
その当時は運営スタッフのご苦労を顧みる余裕は全くなかった私であった。
この体験がこの後に続く「人生を一転させた」出来事となった。
【執筆】中越市民防災安全士会 石黒みち子(第4話)
330号 2024/10/27
7.13水害の体験談 子ども達を守る覚悟を決めた保育所の松井さん(5/6話)
その後被災した保育所は大幅に改築し、
平成17年1月4日、新しくなった保育所での保育が始まりました。
それまでの5ヶ月ほど、遠くの保育所に通うことになり、
保護者の方々にはご迷惑をお掛けしました。
私は新しくなった保育所の勤務を最後に、定年前でしたが退職しました。
あの惨状が目に浮かび今でも保育所に足を運ぶことにとまどいを感じます。
また、被災直後には、いろんな方々から水害のときの話しをしてほしいとお願いされました。
私は「なぜ、こんなときに・・・。」と思い、なかなかお話しする気になれませんでした。
今は(5年経って)、あのとき支えて下さった方々のために私にできることがあればと思い、
少しずつ話せるようになりました。
被災当時を振り返ると、必需品を整理し非常持ち出し簿を整備し、
飲料水や多少の食料を備蓄しておくことが大変重要であると感じています。
あの水害以来、どこに行くにもおにぎりと水筒を必ず持ち歩くようになりました。
そして、日常的にスタッフや地域の方々とお付き合いをすることが、
本当に重要なことだと思い知らされました。(つづく)
◆7.13水害の体験談 子ども達を守る覚悟を決めた保育所の松井さん(6/6話)
退職後しばらく経ってから、
保育所を2階建てにしてくれた斎藤元町長の墓前にお参りに行きました。
なぜだか涙がこみ上げてきました。
理由はわかりませんが、子ども達全員が無事だったこと、
そして子ども達のお父さんお母さんも全員無事だったことは、
今でも心の底から「本当に良かった」と思っています。
私は中之島というところは災害がないと思っていました。
それなのに一瞬にして泥海に呑まれてしまいました。
本当に辛い経験でした。
そういった中だからこそ、地域の方々やボランティアの方々のありがたさが身にしみました。
あのときのありがたさは一生忘れることができません。
あれから5年、先日(平成21年6月6日)、
刈谷田川で行われた凧合戦に行き、地域の方々と言葉を交わしました。
「やっとここまで来たね・・・。」(おわり)
※新潟県中越大震災から20年ということは、7.13水害(新潟・福島豪雨)からも20年。
7.13水害の体験談として、7.13水害から5年後の平成21年に地域の方々にヒアリングし、
信濃川大河津資料館にて紹介したものを読みやすく調整しました。
【執筆】株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第11話)
359号 2024/10/16
中越地震、その時何が(その9)
中越地震の軌跡の救出劇により、東京消防庁の消防救助機動部隊、
いわゆるハイパーレスキュー隊の活躍ぶりが一気に全国に広まった。
この部隊は阪神淡路大震災の教訓から誕生している。
大災害に対応できる部隊が必要であるということから生まれたのだ。
その後、航空消防救助機動部隊、
エアハイパーレスキューという部隊も誕生している。
災害の多発化、大型化、複雑化に伴って救助活動も多岐にわたり、
様々な場面に対応することが求められ、
ますます重要な組織となっている。
消防隊員は私たちにとって一番身近な人たちである。
交通事故や急患、火事、災害などあらゆる災害の現場で頼りにされている。
出動回数は地域によって異なるが、どこの消防隊員も連日出動して忙しい。
彼らの活動によって私たちの社会活動は守られている。
彼らの存在なくして安心は得られないといっても過言ではない。
「優太君の小さな手が隊員の肩をしっかりとつかんだ時、
よし、やった!と感じた」と元東京消防庁のハイパーレスキュー隊の部隊長、
清塚光夫さんは涙ながらに語っている。
自分の命を懸けて救出活動にあたっている消防隊員達の姿は神々しい。
被災者にとっては心優しいスーパーヒーローである。
イザという時のために体を鍛え、訓練を重ねる彼らに心から敬意を表します。
そんな組織、そんな人が必要なことを防災関係者はもっとアピールして、
応援しても良いように思う。
災害の過酷な現場では経験や訓練がものをいう。生易しいものではない。
昨今は机上のパソコンで何でもできるように錯覚するが、災害現場では通じない。
誰かがこの厳しい現場を担わなければならない。
やはり人間を救うのは、最後は人間の力なのである。
【執筆】株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第10話)
(元株式会社TeNYサービス 取締役)
358号 2024/10/15
和太鼓奏者になるまで(その5)避難生活の始まり
六日町での生活は快適でした。
実家の家族も含めると14人での生活。
前から泊まりで遊びにいったりしていたのでそんな感覚でした。
テレビでは山古志の状況や避難所での生活が報道されていて、
大人達が深刻そうな顔をして見ていたのを覚えています。
兄たちがどうかはわかりませんが、僕はそんなことは気にせず、
秋休みだと思って満喫していました。
遊んでいたゲームやおもちゃは全部山古志の家の中。
だからと言って退屈していたかというとそんな事はなかったです。
叔父に遊んでもらったり、両親と遊んだり、兄や弟と遊んだり。
大人はみんな優しかったですし、なんでもしてくれた様な気がします。
あっという間に時間は過ぎました。
これは後日談みたいなものですが、
最初、避難生活は一週間くらいだと聞いていました。
父にも聞いてみたんですが、親たちの気休めの一言ではなく、
本当にそんな話があったそうです。
それがもう一週間、いや一ヶ月とみるみるうちに期限が伸びていき、
そして"いつ帰れるか、本当に帰れるかわからない"となったようです。
そんなことは知りもしない坂牧少年。
避難してから一週間くらいたった頃、両親から転校の話をされました。
一ヶ月しか行かないのに学校行くの?と思ったのを覚えています。
まあ暇だし良いよ!と軽い感じで僕たちは大巻小学校に転校しました。
【執筆】和太鼓奏者 坂牧颯人(第5話)
357号 2024/10/14
高校1年生だった私の体験(15)おわりに
2005年の9月に相川集落の罹災者公営住宅が建ち、
そこに祖父母以外の家族が入居した。
本当は家族7人が住むために2部屋借りたのだが、
仮設住宅の時と同様、実家前のプレハブに住むと祖父母は言った。
高校2年の秋に入居したが、進路の悩みが深くなったのもその頃だった。
地震で家業の養鯉に使っていた土地も設備も破壊され、
自宅再建の目処も立たず罹災者住宅に住んでいる。
自分が進学を希望することで、親や弟たちがもっと大変な状況になる。
自分が家族の負担になるのではないかという思いが頭から離れなくなった。
早く率直な気持ちを伝えればいいものを、それができなかった。
結局4年制大学への進学を諦め、2年間は県内の学校に入った。
その後別の4年制大学に3年次編入し無事卒業した。
震災ののちにフェニックス花火のテーマソングになった
平原綾香さんの「Jupiter」を聞くと、
今も当時の想い悩んでいた気持ちを思い出す。
「望むように生きて 輝く未来を」
大人でも子供でもない、判断力も乏しい自分が、
こんな状況で望む未来はわがままかもしれないと思っていた。
それでも望んでも良いと、この歌に寄り添ってもらった、
背中を押してもらった気持ちを思い出す。
毎年この歌を夏の長岡花火で聴くと、
子持ちの主婦になった今でも当時の気持ちがよみがえってくる。
辛い時この歌に支えられて生きてきたこと。
あの中越地震があったから、今日の自分があると思う。
私はこの歌に助けてもらった。
思春期の私は、たくさんの大人に助けてもらって、
友達同士で支え合って大人になった。
いつかこのことを、平原さん本人や、誰かに伝えたかった。
この度の機会をいただけた事を有難く思っている。
【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第15話)
356号 2024/10/13
長岡市災害ボランティアセンターの運営 ~学生とこっそり喫茶店へ~
災害ボラセンの運営には、長岡市民のボランティアをはじめ、
地元長岡や新潟県内のNPO法人、県内外から派遣された社協職員等、
初めて会う方たちではあったが、皆が結束して活動を進めてきた。
その中でも、地元長岡の学生には、大変お世話になった。
震災により学校自体が休校になっていたこともあり、
長期間の協力が可能なためボランティアの受付班を担ってもらった。
ある日、新潟県社会福祉協議会内に設置された
県災害救援ボランティア本部から私に直接電話が入った。
「長岡で活動を行っているボランティアから、災害ボラセンの受付スタッフが
昼間仕事もせずに遊んでいる」との苦情が県本部に入った。
受付は多くのボランティアが最初に訪れる場所なため、
しっかりしてもらわなければ困る。ちゃんと注意しろ!」とお叱りを受けた。
しかし、私は、その学生たちを抑えつけて叱ろうとはせずに、
時間の空いた時に、近くの喫茶店に行こうと声をかけた。
コーヒーを飲みながら、たわいもない話をしていく中で、
学生でありながら、連日、災害ボラセンのスタッフを担っていることに
感謝するとともに、市民や長岡に来られたボランティアの心情に配慮し、
行動してくれとお願いをした。
その場にいた学生全員が、「わかりました」と答えた。
それ以降、外部からの苦情は一切なかった。
【執筆】長岡市社会福祉協議会 本間和也(第12話)
355号 2024/10/12
ガス水道局での災害対応(支払い作業)
復旧復興は、もちろんガス管、水道管を直すというところだったり、
水を配る、給水車を配るのもそうなんですけども、
最終的にはお金を払う必要が出てくる。
もちろん工事をした業者さんには工事代金を払うし、
給水車で活動してくれた方にもその活動にかかったお金を払わなくてはいけない。
何億というお金が最終的に必要になる。
ガスの復旧には何十億という金額を支払わなきゃいけない。
そんなお金はもちろんありませんから、国から借金をするんですね。
借金をしてそれぞれ工事業者さんとか水道事業者さんに支払われる。
そのお金を借りる算段を急いでしなきゃいけない。
とりあえずお金の算段について、
それぞれ給水車を出してくださった水道局さんとか工事をしてくださった業者さんから
請求書がどんどんと届くんですね。
これはもうルールなので。かかったお金を請求する。
請求して被災地がお支払いをすると。
どんな中身かというと職員さんの食事代だったりとか
もちろんここまで来るのにかかった交通費とかですね。
こちらに来るにあたって必要なものを準備するためにかかったお金とか。
その辺は全部請求としています。
ただ宿泊代は実は小千谷市内の宿がほとんど使えない状態でしたので、
ほとんどの水道事業者の方はとある学校の体育館に
雑魚寝といいますかをしていただきました。
その事業者の方たちは宿泊費を請求されなかったですけれども、
中には市外の温泉ホテルに寝泊まりをして
そこからこう通われていた事業者の方もいらっしゃったので、
そういうところは宿泊費を合わせてドンという請求書がきました。
その支払い作業が給水作業の次に待っていた仕事でしたね。
非常事態ですので職員の皆さんの気持ちがピーンと張り詰めていて、
やらないわけにいかないという仕事がしばらく続きました。
もちろん体力的にもかなりきつい時もありましたけれど、
みんな自然と頑張れたといいますか。
ちょっと落ち着いた時に振り返ってみると
「よく頑張ってあの時やったよね」なんていうね。
仕事の中でいえばやることは次から次へとありましたけど、
仲間が、職員がたくさんいたので一緒になってやれば何とかなるかなというのは、
あまり深刻に考えないようできていたので…。
給水車が減ったり増えたりという部分はもちろん一番困ったんですけれども、
全体にみれば基本的には、比較的頑張れたかなと思いますね。(つづく)
【執筆】おぢや震災ミュージアムそなえ館 堀澤淳司 インタビュー(第8話)
(中越地震発生当時 小千谷市ガス水道局主任)
354号 2024/10/11
被災現場の人と人(その6)
10月25日午後、自衛隊のジープで隊員2名を川口町庁舎前の本部に案内した。
最初の対応は、町職員の用意した住宅明細図に小千谷市から川口町本部への行程、
脇道を含めて道筋を色付けしたことだった。
道半分が崩れている道路もあったが、補修作業も相まって、
この道を通じて食料等の支援が開始された。
その後、小千谷市役所に泊まり込んでの業務もあったが、
本部などですれ違う際に阿部金二連隊長から
「大きなテントを5千張用意した。
必要に応じていつでも搬入すると川口町に伝えてください。」
「困ったことは、何でも言って欲しい。」との声掛があった。
「5千張」を川口町に伝えた時の緊張は、今でも覚えている。
後年、阿部連隊長は千葉県浦安市で初めての危機管理監に就任され、
2010年に逝去された。
2011年東日本大震災の浦安市震災被害(液状化等)への災害派遣で、
中越大震災ネットワークおぢやの一員として入った際に、
阿部連隊長の後輩で浦安市危機管理監となられた澤畠博氏から
指導、交流を得ることとなる。
阿部連隊長の人となりを知る澤畠氏との交流と、震災が繋いだ縁に、天を仰ぐ。
澤畠氏は、現在、四街道市危機管理監、
特定非営利活動法人千葉県防災士会理事長として
行政そして地域の防災活動に取り組まれている。
【執筆】中越市民防災安全士会 会員 吉原 昌隆(第8話)
353号 2024/10/10
青葉台3丁目自主防災会の歩み 話題(8) 住民としてこの地震を受けて感じた事
(青葉台3丁目住民 塚越 穂津美さんの感想を紹介します)
地震は我が家に二重三重の災害をもたらしました。
当時、夫は単身赴任中で家には私一人でしたが、
避難所へは行かず家で夜を明かしました。
翌日は晴天に恵まれ、気を取り直して散乱した我が家の中を片づけていると
近所の石塚さんが来られて、裏の敷地に大きな亀裂が入っていると知らせて下さいました。
見に行くと亀裂はかなり長く深さもあり、大変なショックで途方にくれました。
そんな時、見廻りに来てくださった防災員の神田さんに状況を相談すると、
ありったけの町内会のブルシートで亀裂を覆って下さいました。
この作業には防災委員の方々と町内の方々の助けが有りました。
当時、我が家は外壁工事中で足場が組まれていたため、
腰をかがめ、足場をぬっての作業となってしまい、ご苦労をおかけしました。
夫不在の中、とてもありがたく精神的にも心強かったことを思い出します。
その後、長岡市調査員の親切な対応で比較的早く土嚢を積んでもらいました。
しかし、翌年の復旧工事は工事の不手際でさらに法面がえぐれるように
崩れる状態となり、大きな不安を感じました。
この時も畔上さん、神田さんに県への申し立ての相談に乗って頂き、
対応する事が出来ました。
この災害で改めて自主防災会活動の大切さ、
町内の結束力の強さを認識する事になりました。
私なりに普段から災害に対する意識を持って行きたいと思います。
【執筆】青葉台3丁目自主防災会運営委員長(中越地震当時) 畔上純一郎(第8話)
352号 2024/10/9
羽賀友信さん かく語りき「第八話 顕在化する平時からの問題
災者の皆さんからいろいろとアンケートをとったら、
家庭内の差別ってのも結構あるんですよ。
フィリピンの人が固まってたんで、僕らがタガログ語を喋れる人連れてったら、
「タガログ語はやめて」って言われた。
どうしてって言ったら、旦那さんが家庭内でフィリピンの奥さんを下に見てた。
「英語をしゃべればかっこつくから家では英語以外は喋るなと言われてます」と。
そういうのがいっぱい出てくるんですよ。
アンケートで分かったもう一つは、外国人の16%しか避難所に入らなかった。
理由は、外国人は駄目だと思った。お金を取られると思った。日本人だらけで怖かった。
例えば、発達障害の中でも自閉症の人って、現実的には避難所に入れない人なんです。
実際、アメリカ人の家族でいたんですけど、やっぱり自らもう引いちゃうわけで、
行き場がないんですね。子どもがパニックになる。
だからそういう人たちに対応できる、
同じ課題を持ってる日本人がNPOとして相談にのったり、
別個に避難所を作って対応したりしました。
行政は福祉避難所というくくりにしたけれど、それじゃ駄目なんです。
例えば受験生はどうするのかとか。
だから受験の子たちには僕ら部屋を特別に借りた。
そのときは中国残留孤児のお子さんだったんだけど、
非常に難しい問題が初めてそのとき顕在化した。
これは全く議論してないことなんで、別個にしないといけないですね。
【執筆】長岡市国際交流センター長 羽賀友信(第8話)
新潟県中越大震災20年プロジェクト事務局(中村早希・諸橋和行)
351号 2024/10/8
地域復興支援員とは(第11回)
復興支援員として2年目になるとメンバーも増え、
小千谷市から中山間地に派遣されていた地域振興支援職員制度の
10年間の期限が終了し、復興支援員がその役割を担うこととなった。
3地区に1名ずつ合計3名の復興支援員が配属されたが、
ある地区から支援員のダメ出しを突き付けられることとなる。
代わりに派遣するのに白羽の矢が私に向けられた。
地域の入り方がそのような状況だったので、
地域から希望されることは何でもやった。
それが地域の自立性を失うことになるとはその時は思わなかった。
しかし、ある時に決定的なことを言われる。
「あなたは金を持ってくる役目。私たちはそれを使う役目」
支援員制度は当初5年の期限付きであったが、
2度の延長がなされ、結果として10年間業務することとなった、
その間に担当地域の移動もあり、現在も制度自体は別物だが
私は地域の支援員として勤務している
(つづく)
【執筆】小千谷市にぎわい交流課 地域づくり支援員 石曽根 徹(第11話)
元小千谷市地域復興支援員(小千谷市産業開発センター所属)