301号~350号
350号 2024/10/7
「中越メモリアル回廊」と中越防災安全推進機構(第2回)
長岡駅前再開発ビルの2階に「きおくみらい」を整備し、
旧山古志村(現在は長岡市)役場に隣接する既存施設をリニューアルした
「おらたる」(公募により決定。おれたちの居場所の意味)、
旧川口町(現在は長岡市)のゴルフ場レストハウスを
リニューアル活用した「きずな館」、
小千谷市には市民学習センターとして地域に活用されていた施設に
併設した「そなえ館」を整備しています。
加えて、長岡市と小千谷市の領界で発生した大規模崩落現場に
「妙見(みょうけん)メモリアルパーク」を、
大規模な土砂模崩落で堰き止められた河川によって水没した
山古志村(現在は長岡市)木籠(こごも)集落跡には、
「木籠メモリアルパーク」を、
そして震源地として特定された川口町(現在は長岡市)の
武道窪(ぶどうくぼ)には「震央メモリアルパーク」を整備しています。
4メモリアル施設、3メモリアルパーク結ぶ「メモリアル回廊」は、
震災の「体験」と「教訓」を伝承するとした構想を具現化した成果ですが、
追悼や祈念と同等に被災地域の交流人口の拡大を狙った
地域活性化方策の一つでもありました。
地震発生から19年余、
メモリアル拠点整備から10年の時間が経過している今、
各施設は連携から自立に向かい、
回廊としての強みを発揮できなくなっているようにも見えます。
私たちは、大災害の「体験」と「教訓」から多くを学びます。
上手くいったこと、誇りに思うこと、失敗したこと、後悔していること、
どれも後世の人々に伝え、残していかなければならないことがたくさんあります。
大災害から学ぶべき最大の「教訓」は、災害に遭遇したとき、
私たちは自分の命は自分で守る行動を実行に移すことだと言われますが、
「ヒューマンエラー」によってかけがえのない命を失うことが少なくありません。
「中越メモリアル回廊」は、災害を「自分事」として捉え、
不断に備えることの必要性を語り続けなければなりません。
加えて、国土の7割を占める中山間地の持続可能性を獲得するために、
中越地震からの復旧・復興プロセスを何度も何度でも紐解きながら、
多くの英知を集め、地域づくりの実践モデルとすることが重要な使命なのです。
【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第14話)
(公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)
349号 2024/10/6
小千谷市議会 震災復興特別委員会の活動
特別委員会の運営については、
議員全員協議会及び会派代表者会議での協議を経て、
各部会の所管事項を解決する中で、
生活部会、産業部会、文教福祉部会の三部会を設置し、
委員を割り振り、それぞれ正副部会長を選出した。
その後は各部会毎に復興への調査・研究活動を行い、
必要に応じて全体会を開催することとした。
部会活動のまとめについては、
平成17年6月22日開催の第5回特別委員会において
部会としての提言を報告した。
この提言は、6月24日開催の平成17年第3回定例会の最終日に
「震災復興特別委員会中間報告」を行った.
8か月間にわたる連日の議事録起こしは、きつい作業であった。
※小千谷市議会の資料から引用
-中越大震災に対する議会の取組みについて(中間)
【執筆】中越市民防災安全士会 関田孝史(第5話)
(震災発災当時は、小千谷市職員 議会事務局)
348号 2024/10/5
避難所での体験①
近所の家族は1軒のみが自宅で後片付けをしていた。
家で生活できるよう片付けを始めると言った。
周りに誰もいないが皆さん何処へ逃げたのでしょうか?
聞いてみたが「分からない」
「みんなどこへ行ったのかねえ・・」との返事であった。
大きな被害を受け、冷静に物事を考えられる余裕などない。
今どうするか、体にケガはないがどうしたらいいのか身動きができない。
周囲に人がいないことに大きな不安を感じる。
おーい、みんなどこに行ったの~ と叫びたい衝動に駆られる。
見慣れた道路が一夜にして変わった。
昨日とまるで違った損傷した道路を歩き、総合体育館へと向かった。
この辺りの避難所は… 総合体育館しか思い起こせなかったから。
道路わきの電線はちぎれ、道路に垂れ下がっていた。
トランスが今にも落ちてきそうな状態。
マンホールが50cm、いや150cm?
道路のあちこちから飛び出していた。
小さな池が道路に幾つもできていた。
これが液状化現象と知る。
普段は車で行き、テニス練習の場であった総合体育館についた。
えっ!! 愕然
入口のコンクリートの土間から見渡す限り人・人・人・
通路や階段の踊り場に至るところ全てが人で埋め尽くされていた。
高齢の方や乳幼児を抱えた若い親子、小学生親子などなど。
不安そうに青ざめた目で私を見た。
知り合いはいないか・・・、アリーナに空きは無いか?
入ろうとした途端、「入れないよ、帰りな!」と大きな声がした。
何処からか?男性の声。
私は泣きそうになった。一気に辛さと悲しみが胸を押し上げた。
早いもん勝ちではないが、今頃来ても遅い!!と言わんばかり。
昨夜の大きな地震の直後に避難してきた人たちだろう。
それでも「人を探してます」「入らせてください」と
人をかき分けて階段をのぼり、アリーナを上から見た。
隙間なく人で埋まっていた。
観覧席やトレーニングコースも人で埋め尽くされていた。
それも体育すわりで。
これだけの人が小千谷市のどこから集まってきたのか?
【執筆】中越市民防災安全士会 石黒みち子(第3話)
347号 2024/10/4
あれから20年 食の備えは変わったか「宇宙食」
大規模地震の被災者、特に住家が全半壊した被災者には戻る自宅はなくなり、
避難生活は数ヶ月にも及びます。
その間、買い物に自由に行けるものではなく、
救援物資に頼る生活が続き、電気、水道の使用も大きく制限されます。
このため、災害食が開発されてきました。
一方、国際宇宙ステーションでは、滞在は6ヶ月にも及び、
ステーションのドアを開けてコンビニに行くことはできず、
調理方法も限られ、食料は運んでいくほかありません。
このため日本人宇宙飛行士のために宇宙日本食が開発されています。
このような類似があることもあって、
宇宙日本食認証食品が日本災害食認証申請を行う場合、
審査項目の一部が省略されることになりました。
このことから、宇宙日本食が地上生活で、
被災者のために利用が促進されることが期待されています。
将来、避難所のお年寄りが食べている災害食と同じ食品が
宇宙ステーションや月で食べることになるかもしれません。
20年前の中越地震で経験した困りごとは、解決に向かうだけでなく、
更に発展しつつあると感じます。
【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第14話)
346号 2024/10/3
7.13水害の体験談 子ども達を守る覚悟を決めた保育所の松井さん(4/6話)
その日は避難した子ども達の多くと一緒に中之島文化センターに泊まりました。
救援物資の食料や飲み水があり、それに電気がついて明るい場所でしたので、
保育所に泊まるよりはるかに良かったです。
子ども達全員を保護者に帰したのは翌日14日のお昼過ぎでした。
子どもを迎えに来られたおじいさんとお父さんが、重い荷物の移動や、
ヘリコプターへの誘導を手伝ってくださったから何とか避難することができましたが、
女性だけでは力が足りず困難な場面が多々あっただろうと思います。
被災後は避難所のスタッフとして従事していましたが、保育所の事が気になり、
役場に頼み許可を得て保育所の様子を見に行きました。
確か17日の朝の事だったと思います。
園庭が見えてくるにつれて、冷蔵庫、テーブル、車、車庫、屋根などが
流れ着いている様子が確認できました。
園舎の中も泥が堆積し、直径50cmほどの丸太が何本も顔を出していました。
重たいピアノが転び、冷蔵庫が元の場所とぜんぜん違うところにあって、
改めて水の恐怖を感じました。
私たちが泥出しをしていたとき、現地調査の方々が水深の高さを教えてくれました。
玄関の床から198cmの高さだそうです。
保育所が平屋建てだったらと思うとゾッとしました。
私たちは毎日7:00に集合し、子供たちのケア、
使えなくなった保育所に代わる施設の準備、被災した保育所の始末などにあたりました。
帰宅は夜遅くになり、休む暇もなく良く働いたと思います。
もっとも休んでいる暇は無かったし、休む気にもなれませんでした。
そんな中、保育所の泥出しやゴミ出しのときには
多くの方々が手伝いに来て下さって本当にありがたかったです。(つづく)
※新潟県中越大震災から20年ということは、7.13水害(新潟・福島豪雨)からも20年。
7.13水害の体験談として、7.13水害から5年後の平成21年に地域の方々にヒアリングし、
信濃川大河津資料館にて紹介したものを読みやすく調整しました。
【執筆】株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第10話)
345号 2024/10/2
中越から能登へ ⑥ -被災地の「創造的復興」か「創造的復旧」か-
中越地震では、阪神・淡路大震災における「創造的復興」ではなく、
「創造的復旧」を目指した。
大規模災害復興法(2013)もなかった阪神・淡路大震災では、
公共事業は「原形復旧」への補助が原則で、その方が経費が過大であったり
再度被災防止が不可避である場合にのみ「改良復旧」が補助された。
そのような状況で、大都市のように右肩上がりの新たな改造を目指すのではなく、
人口減少下において地域の文化や社会、伝統を震災前の状況に戻すことにも、
“空前の取組み”が不可欠であるとして、
中越地震では「創造的復旧」を理念に掲げて、復興に取り組んだ。
被災者を置き去りにして被災地を新たな地域に創造する「創造的復興」ではなく、
被災者に寄り添って伝統と文化と社会がある被災地を改良的に復元するには
「創造的復旧」の発想と取り組みが不可欠である、との理念が、
中越地震からの中越地域の復興の目指すべき方向と方法を決めた。
中越も、能登も、里山里村はどんな時代でも里山であり里村であろう。
だからこそ魅力のある、文化と伝統溢れる、唯一無二の地域であり、
全ての人ではなく、ここでなければならない人を引き付ける地域としてあり続けるのではないか。
それが、「創造的復旧」としての地域づくりなのではないだろうか。
【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第18話)
(新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)
344号 2024/10/1
ブラックアウト大作戦
新潟県中越大震災から20年という節目の年に、
震災当時を思い出したり、その後の歩みを振り返ったり、
経験や教訓を確認したりすることで、
災害に「も」強い地域づくりと人々のよりよい暮らしにつなげていけたら…
新潟県中越大震災20年プロジェクトも
このメールマガジンをはじめたのもその思いからです。
そこにもう一つの仕掛けができないか…
それが、ブラックアウト大作戦です。
電気のある生活が当たり前となっているなか、
あえて家庭内を停電(疑似災害)にしていただき、
夕食をとっていただく。きっと多くの気づきがあるはず…
2024年10月19日(土)~10月23日(水)の期間で
都合の良い日に、17:56以降の時間にブレーカーをOFFにしていただき、
1~2時間後にブレーカーをONにしていただきます。
終了後はそのときの行動や発見、感想などをお聞かせください。
詳しくはこちらのサイトをご覧ください。
https://nagaokablackout.jimdofree.com/
(参加は簡単、ここからエントリーしていただきます)
1年前の2023年10月23日にプレで実施しております。
そのときの報告はこちら。
https://www.chuetsu20.com/2023/12/20/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E5%A4%A7%E4%BD%9C%E6%88%A6-%E7%B5%90%E6%9E%9C%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%81%BE%E3%82%8B/
景品をプレゼント
メールアドレスを登録してアンケートにご協力いただいた方に
抽選で特製景品をプレゼントします。
船山株式会社さま、ホリカフーズ株式会社さま、株式会社ブルボンさま
から協賛いただいております。
皆様のチャレンジ、お待ちしています。
【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 事務局長 諸橋和行(第4話)
343号 2024/9/30
中越地震との関わり
その日は土曜日だったが、週明けから始まる職員研修の準備もあって仕事モードだった。
せめて「美味しい物でも食べよう」と思って三ノ宮にいた時、
携帯が鳴って「招集」がかかった。
当時私は、神戸にある「人と防災未来センター」という
阪神・淡路大震災の伝承施設と研究所が一緒になった施設で働いていた。
そして翌週からの1週間、行政職員の災害対応研修を運営することになっていた。
招集の理由は「新潟県で大きな地震が発生した」ことだった。
このセンターでは、職員研修以外にも、
被災自治体を支援する人員を派遣する支援事業も行っており、
急遽、被災地への支援体制を組むことになった。
そこで、翌週からの職員研修をどうするかが問題になったが、
「おまえ一人で何とか対応しろ」という上司の命令で実施が決まり、
私以外の研究員は3日前に発生した豊岡市の水害と、新潟県中越地震に分かれて、
被災地対応をすることになった。
新潟県中越地方は、4カ月前も水害で被災していた。
センターで「ボランティア」の分野を担当していた私は、
その「水害ボランティアセンター」を訪問していたので、
当時お世話になった人達のことが気になったが、研修に集中せざるを得なかった。
その研修も、受講者だけでなく講師からもキャンセルの連絡が入り始め、
講師から資料をもらって私が代講するような事態も発生し、
被災地のことを考える余裕はなくなっていった。
そんな研修が終盤に近づいた日の夜、中越の知人から電話が入った。
「今、体育館の避難所。目の前に3000人の避難者がいる。
神戸では大規模な避難所をどうやって運営していたの?
開設から閉鎖までのプロセスを教えて」というのが、電話の内容だった。
これが新潟県中越地震との最初の関わりだった。
【執筆】関西大学社会安全学部・大学院社会安全研究科 菅 磨志保(第1話)
342号 2024/9/29
震災の谷の思い出(その2)
震災の谷を住民が大切に思っていることを示すには
行動することが一番と考えました。
復興支援センターのみなさんや地域の人たちと相談して、
この震災の谷を見学する遊歩道整備を検討しました。
震災の谷を挟む両側の集落から参加いただき、
竹沢側と梶金側から遊歩道整備を始めました。
遊歩道整備の最中にはマムシも現れ、捕まえてその場で皮をむいて、
その日の夜の直会であぶっていただいた事もいい思い出になっています。
ずいぶんと山古志の人たちとも仲良くさせてもらいました。
廃道上には、隣接する小千谷市十二平住民の軽トラックが残されていたり、
当時のことが残る震災遺構となりました。
住民が参加して、遊歩道を整備し、その住民が自らガイドも行っていたので、
その熱意を感じた砂防関係の工事担当者から、
砂防施設の設計変更されたことを教えてもらいました。
震災の谷を残すことができたのです。
ですが、県の道路管理者からは、この場所はやはり危険なので、
遊歩道の利用について立ち入りは禁止となりました。
今は草木に覆われて、震災の谷がどのような状況だったのか、
なかなか知ることはできませんが、震災からしばらくの間は、
あの日の出来事を伝える役割を果たしたと思います。
当時から、自然環境下で存置する震災遺構の難しさを感じていました。
とはいえ、震災から時間が経過し草木に覆われた姿は、
20年という時間の経過を表す震災遺構だと考えています。
【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第14話)
(元中越メモリアル回廊担当職員)
341号 2024/9/28
中越地震、その時何が(その8)
震災発生から既に90時間以上が経過している。
災害には72時間の壁というものがある。
発生から3日が人命救助の一つのリミット。
3日を過ぎると生存率が著しく低下するのだ。
まして当時は10月23日。秋も深まり、夜は肌寒い季節である。
激しい崖崩れに巻き込まれながら生存のニュースが駆け巡り、
報道各社はその救助の一瞬を見逃すまいと一斉にカメラを現場に向けていた。
はっきりとしたことは分からないのだが、
家族3人が生存しているらしいとのニュースが伝わってきた。
喜びと安堵の空気が流れたことを覚えている。
そして午後2時半過ぎ、
おむつをはいた上半身裸の小さな子どもの姿がはっきりと映し出された。
震災発生から92時間、
当時2歳の男の子が救出される姿が全国の茶の間に生中継された。
奇跡の救出である。崖崩れの落石に巻き込まれた車の僅かな隙間に入り、
奇跡的に命が救われたのだ。
当時、この現場にはシリウスという電磁波を利用した人命探査装置が持ち込まれ、
2歳の男の子の生存が確認できた。
しかし、最後には崩落現場の僅かな隙間に隊員が潜り込み、
命懸けの救出活動で子どもを助け出している。
やはり最後は人間の力なのである。
この時のハイパーレスキュー隊の部隊長は魚沼市出身の清塚光夫さん。
故郷の大災害の救出活動に携わるということで、
並々ならぬ覚悟で現場に臨んでいた。
余震が続く中、救出活動と同時に隊員の命を預かるという
重大な責任の中で現場に入っていた。隊員達にも家族がいる。
絶対に無事に帰還するという決意に揺らぎはないが、
目の前の命を助けるために危険な現場に飛び込もうとする
隊員たちの思いも受け止めていた。
災害現場に臨む消防隊員を始め、自衛隊、警察官達はそんな覚悟、
思いで災害現場に臨んでいることを私たちは決して忘れてはならない。
【執筆】株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第9話)
(元株式会社TeNYサービス 取締役)
340号 2024/9/27
20年で変化した“防災”と“減災”への意識
内閣府の調べによると、地震による被害の中でも
家具類の転倒や落下による負傷者が多くを占めています。
こうした現状を伝える立場でもある私自身も
この20年で“防災”や“減災”への意識が変わりました。
特に子ども達の成長とともにその考え方に変化が出てきたのだと思います。
自分や家族の見を守るために家具の固定を始め、
家の中でもあまりものを置かない部屋を設けて、
家族が「安全空間」に集まれるように工夫を施しました。
また、子ども達が大きくなってからは携帯ラジオや
モバイルバッテリーが一体化したものを家族全員が持つようにしています。
災害時に必ず一緒にいるわけではないので、
携帯電話さえつながれば家族の安否確認ができます。
そこで情報をとるラジオとモバイルバッテリーは欠かせません。
最近は備蓄品の見直しをしています。
元日に発生した能登半島地震でも水やトイレの問題が報じられていました。
こうしたことから水の備蓄と携帯トイレ、
トイレを隠すためのテントを新たに整備し、
自宅で避難生活をおくることになったとしても
数日は過ごせる環境を整え始めています。
【執筆】BSN新潟放送 メディア本部報道制作局 報道部長 酒田暁子(第8話)
339号 2024/9/26
山古志村支援チームの活動 山古志村役場長岡支所開設へ(その6)
発災11日目の11月2日、昨日準備した重要書類等の搬出のため、
自衛隊のヘリで長岡高校グランドから山古志に飛ぶ。
役場職員とともに役場から竹沢小学校へ荷物を運び、迎えのヘリに積み込んでいると、
隊員から「荷物は何処に運びみますか」と聞かれ、「長岡市役所です」と答えると
「では、工業高校に降ろしましょう」ということになった。
「タクシーみたいだ」と感心しているうちに無事着陸。
そこにはトラックと隊員たちが待機していて、手際よく支所予定の建物に搬入を終えた。
その後もいろんな場面で自衛隊の皆さんには大変お世話になりました。
県災対本部に依頼していた支所の調度やパソコン等も準備OKとの連絡、
すべて中古品である。こちらも手際がいい。
これらを6日に支所内に搬入設置し、8日に開所というスケジュールとなった。
思っていたより順調だ。
当初、6日の調度等の搬入設置は、役場側の意向もあり役場職員の手で行うこととしていた。
しかしこの日、天皇皇后両陛下が山古志の避難所を慰問することとなり、
村長以下役場職員はそちらへ張り付くこととなる。
急遽、県に動員を依頼したところ、朝から20人ほどの若手が長岡へ駆け付けてくれた。
また、夜なべで庁内LANの設定をしてくれた情報担当の職員、皆さんに感謝、感謝。
涙が出るほど嬉しかったよ。
発災から17日目、11月8日午後1時に山古志村長岡支所開所。
長島村長を始め職員の皆さんの顔にも少しは活気が戻ったようだった。
ここから山古志の復旧・復興が始まる。主役は皆さんですよ。
さて、これにてミッション終了。無精髭の支援チームは新潟へ引き上げた。
【執筆】 元新潟県県民生活・環境部 震災復興支援課長 丸山由明(第9話)
338号 2024/9/25
今考えて思うこと(第10話)災害時の学習権の保証(2)
学校教育において行政がすべきは、
被災した学校に正常な運営を求めることではなく、
日ごろから被災時の備えを行政自身がしておくべきだと今でも思います。
もし、どこかの学校が被災して校舎が使えなくなった場合は
どう対応するかを事前に決めて、それを全学校に周知しておく必要があります。
また、授業が行えなかった理由は場所だけの問題ではありませんでした。
多くの教師が被災し、結果として高齢者の介護等で
出勤できない者が少なくありませんでした。
そういった時は特例的に被災しなかった近隣の学校の教師を
再配置できるようにしておくなど、事前に対応を考える必要があります。
また、地震直後神戸市の先生方が駆けつけてくれて、支援を申し出ていただきましたが、
私たちにそれを受け入れるだけの余力と余裕がありませんでした。
こういったボランティアの受け入れも行政機関は想定すべきだと思います。
例え災害があっても、子ども達の学習権を保証することは大切なことです。
しかし、それを現場に押し付けることは現実的ではありません。
そのために、震災時に何があったのか、何が問題だったのか、どう改善すればいいのか、
20年たった今でも、いや今だからこそしっかり検証し備えるべきだろうと思います。
【執筆】長岡工業高等専門学校 非常勤講師 五十嵐一浩(第10話)
(前三条市立第四中学校 校長)
337号 2024/9/24
ガス水道局での災害対応(避難所の状況を聞きとる)
避難所をそれこそ一つ一つ私の方で見て回れるような状況ではなくて。
災害対策本部の方から
「この避難所には何人ぐらい避難している、ここの避難所には何百人、何千人いる。」
数字が正しいか嘘なのかはちょっとわからないんですが、数字が来るんですね。
それに応じて3千人いるところにはやはり1台だと足りないので何台とかにするだろうし、
50人しかいないところであれば2トンが1日1回もしくは2回に行けばおそらく足りるだろうと。
ある程度本部から届いた人数を加味して計画を立てるんです。
その人数もなかなか正確かどうかというのがあって、
例えば私の家の近くにある保育園の避難所の人数を見たら
2千人という数字が書いてあったんですね。
総合体育館が3千人とかですので、ありえない数字が載ってたんです。
(注:小千谷総合体育館はで最大の指定避難所となり1日に約3000人がつめかけた)
多い人数を町内なり市役所に報告をしておけば、
たくさん水だったりとか食べ物がだったりとか届くだろうという、
そういう知恵がもしかしたら働いたのかなというふうに思いながら
実家の母親に電話をして聞いてみたり。
やっぱり現場を見れなかったので、頼りになったのは
水を配りに行ってくださった他の水道局の方からどんな状況かを聞き取ること。
「ここの避難所、本当に2千人もいました? 水は足りていそうですか?」
ときちんと聞き取りをして、「いや十分でしたよ。もう1カ所回れますよ」的なことを
言ってくださる水道局の方もいらっしゃいましたし、
逆に「もうちょっと増やした方がいいかな」なんていうお話を受ければ
じゃあ給水車をもう1台余裕があればやっとこうかなと。
現場を見られない中でそれが現場の状況を詳しく教えてもらうことで
また組み直したりもできたかなと。(つづく)
【執筆】おぢや震災ミュージアムそなえ館 堀澤淳司 インタビュー(第7話)
(中越地震発生当時 小千谷市ガス水道局主任)
336号 2024/9/23
和太鼓奏者になるまで(その4)避難するまで
明るくなってから周りをよく見ると正面の山は崩れて、
もう少しで紅葉していたはずなのに全部茶色。
ばあちゃんがやっていた家の裏の畑は崩れ落ちて崖の下。
傾いてボロボロの家。
幼馴染と遊んだり、焼肉のリベンジか、
近所に住む叔母ちゃんの家の庭でBBQしたり、
子供ながらに非日常の中で起こるイベントを
楽しんでいたんじゃないでしょうか。
そうこうしているうちにヘリコプターでの全村避難の話。
詳しい話は僕は全くわかりませんが、
全村避難はペットの連れ出しができませんでした。
そうなるとルクをおいていかなければならない。
兄弟全員猛反対。
車の中でも吠えずにずっと一緒に過ごしていました。
家族をおいてはいけません。
当時は友達と離れるとか転校するとか何にも考えてなかったです。
僕たち家族は母の実家、南魚沼市六日町の方に車で避難しました。
ジェットコースターとか今でも乗ったことないですが、
例えるならば、安全を度外視した絶叫マシーンのコースみたいな道。
運転する父は気が気じゃなかったでしょうね。
山古志から離れるにつれてキレイになっていく道。
もちろん六日町でも被害はあったと思いますが、
六日町の家に着いた時、
なんというか日常に帰ってきた安心感に包まれました。
【執筆】和太鼓奏者 坂牧颯人(第4話)
335号 2024/9/22
ぼちぼちたけだはどこまで続くのか
中越大震災がきっかけで七世帯の竹田集落のために
描き始めたフリーペーパー「ぼちぼちたけだ」。
はじめは七世帯のみの配布でしたが、
ボランティアやお世話になった方にもお届けするようになりました。
そんなぼちぼちたけだ、七世帯のために手書きで
フリーペーパーを発行していることが珍しいようで、
テレビ、ラジオ、新聞など取材を受けることもありました。
そして先日、過去に取材をしてくれた記者の方から
このことを聞かれて「夏には80号くらいかな」と、
止める訳にはいかなくなる回答をしてしまいました。
始める、止める、よりも、続けることの方が難しいとよくいわれますが、
このフリーペーパーは楽しく続けられています。
きっかけは何であれ「楽しく」というのがポイントかもしれません。
さらにこんなスタイルでも許してくれる竹田集落の皆様には
本当に感謝しています。
【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第13話)
334号 2024/9/21
高校1年生だった私の体験(14)震災1ヶ月後
仮設住宅が泉水小学校の校庭に完成して、
12月の上旬に入居することができた。
両親や祖父母と一緒に家族7人で住むために2棟借りたが、
祖父母は環境の変化を嫌って
実家前に建てられたプレハブに住み続けることになった。
結果、2棟借りた内の1棟(3室)は子供達3人の1人部屋として使わせてもらい、
もう1棟は両親が住み家族全員で食事をする場所になった。
仮設住宅ができたことによって、
普段ならすぐに遊びに行けない距離に住む幼馴染たちの家が、
いくつも同じ校庭内に出来た。
その頃には川口から小出に通学できるようになり、
学校帰りは越後川口駅から歩いて泉水小学校の仮設住宅に帰った。
違う制服を来た高校生たちが、
徒歩やバスや原付バイクを使って同じ場所に帰ってくる。
それぞれの仮設に帰る前に会うと
「最近どう?」とよく長話をするのが楽しかった。
ある日玄関から声をかけられ(インターホンは無い)
長野から来たと言う方がりんごをたくさんくれた。
ボランティアに来た人のようだった。
ネットオークションで買い物をした時、
住所に「仮設住宅」と書いたところ状況を察した相手方から
お見舞いの言葉をもらった。
意外と楽しんでいるので大丈夫、ありがとうございますと返事をした。
【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第14話)
333号 2024/9/20
被災現場の人と人(その5)
発災から3日目の朝、川口町役場前本部で
「ここも大変だが、小千谷市の被害も大きそうだ。
道を探しながらだが、小千谷の本部に行く署員と一緒に行かないか」
との声掛けに、軽自動車で小千谷市役所を目指した。
最初に「坂塚の坂」、
道路中央付近までの亀裂と左の崖、
瀧澤聡消防署員と二人、登りきるまで無言であった。
川口町天納地区の斜面崩壊、
東小千谷地内の道路段差被害に後戻りを繰り返し、市役所本部へ。
小千谷市役所前の駐車場は埋まり、人の波、
入った細かな報告の暇もなく、掛けられた声で物資搬送に従事した。
そして、昼前に災害対策本部に呼び出される。
本部の一隅、自衛隊の本部で、
陸上自衛隊第2普通科連隊阿部金二連隊長(高田駐屯地)から
「川口にはバイク隊が入っただけ、車両の導入路が分からない。
貴方が来た道で川口まで案内して欲しい。」と。
小さなジープに隊員2名と後部座席横座りの自分で、川口町を目指した。
今朝来た一筆書きの道は、瀧澤消防署員の大きな尽力の賜物でもあった。
途中、川口町天納地区の三叉路で、複数の自衛隊車両とすれ違う。
後日、小千谷市東山地区からの避難救出車両と知った。
【執筆】中越市民防災安全士会 会員 吉原 昌隆(第7話)
332号 2024/9/19
青葉台3丁目自主防災会の歩み 話題(7) 中越大震災28日から避難所閉鎖まで
避難所には毎日交代で2,3人が詰めていたが、
避難されている方も日中は殆どいなく、
夜になると数世帯が身を寄せ合って休んでいるような状況となっていた。
従って我々防災委員もやる事も少なく暇を持て余すようになって来た。
避難所として使っている青葉台小学校も11月4日から授業再開の方針が決まり、
11月1日で閉鎖する事が決まった。
我々も避難所運営に持ってきた機材を防災倉庫へ戻す為に
10月30日に防災倉庫の片付け作業を行い、
31日に他町内会と避難所閉鎖に向けて
各々持ち寄った機材の確認と撤収準備作業を開始した。
1日は避難所の全員退出を確認後機材や備品を運び出し、
夕方には防災倉庫へ全て回収する事が出来た。
11月3日に自主防災会委員による中越大震災対応の反省会を行った。
多くの反省意見が出たが結論として・・・
このような大災害になった場合
「行政は当てに出来ない(行政職員も被災者)。
ならば、住民全てが自主防災委員であり、
住民全員で協力できる体制や日頃の啓発活動や災害への共通認識の醸成が大事」
との事を今後の課題として共通認識した。
その上で、我々だけでなく全世帯に今回の地震対応についての
アンケート調査を実施し、アンケート結果を踏まえて
「出来ない言い訳でなく、出来る方策を考える」を皆で意見を出し合い、
今後の災害に備える事とした。
【執筆】青葉台3丁目自主防災会運営委員長(中越地震当時) 畔上純一郎(第7話)
331号 2024/9/18
地域復興支援員とは(第10回)
復興支援員として、初めての担当は小千谷市東山の十二平地区と前回お伝えしたが、
正直支援員とならなければ生涯十二平に行くことはなかっただろう。
それくらい同じ市内でも縁のない場所であった。
発災時十二平には11戸の家があったが、
防災集団移転事業で小千谷市の市街地に移転した。
しかし、かつての集落を守るため集会所の建設や樹木の整備、
石碑の建設など様々なプロジェクトがスタートしていた。
私はこの事業に支援員としてかかわり、
他の支援員とともに2年がかりで記録誌を作成し、
今も地域の人たちとの交流を続けている。
そんな縁から、東日本大震災の被害を受けた宮城県女川町の竹浦地区とも交流が始まり、
防災集団移転が終了するまで、何度か通うこととなる。
(つづく)
【執筆】小千谷市にぎわい交流課 地域づくり支援員 石曽根 徹(第10話)
元小千谷市地域復興支援員(小千谷市産業開発センター所属)
330号 2024/9/18
変わり果てた街に愕然とする
いつもと変りなく朝が来たが、
見たことのない景色に変り果てていた!!
道路は亀裂と断裂ができていて、中を覗いてみた。
どこまで穴が続いているのか真っ黒でわからない。
深さを見て恐ろしさを感じた。
もしも、昨夜逃げ惑うとき、小さな子どもがいて
ここに足を落としたら・・・身震いをした。
引っ張り上げることができただろうか。
自宅の周囲を見渡すと、家屋の損傷が目立ち、
倒壊家屋は比較的少ないが、
家が傾き戸や窓が壊れ、ガラスが飛び散っていたりし酷い惨状。
(多くの家屋が外見では分からない大損傷を受けていた。)
これほどひどく地震で壊れたのだから、
観光地でもない小千谷市は立ち直れるのか?
神戸のように復興できるのだろうか?
自分と小千谷市を重ね合わせ絶望感に陥った。
周りに住民が少なく、どこへ逃げて行ったのか。
町内の人たちはどこへ避難したのだろうか。
近くにある神社は裏の崖が崩れ落ち、
下を流れている茶郷川が神社の崖崩れによって川が堰き止められ、
私たちが避難した道路に水があふれ通れなくなっていた。
家に戻り惨状を確認。
声が出ない!! 明日から、いや今日からどうやって寝起きする?
生活の場を失って途方に暮れる。絶望感に体が震えた。
【執筆】中越市民防災安全士会 石黒みち子(第2話)
329号 2024/9/16
被災者のパワーを引き出す復旧・復興!-市長としての心がけ(11)
-天空の里-
集落の全壊率100%、河川の河道閉塞による浸水被害も発生した
山古志地域の楢の木集落の集団移転先は、
標高300mの高台(旧池谷小学校跡地)に決まった。
実際、移転先の高台から旧楢の木集落を見下ろすと足がすくむ。
天空の里といわれる由縁である。
この集団移転が実現するまでの2年半、
住民主体による懇談会は、実に24回開催された。
市長であった私は、何故そんなに時間がかかるのか理解できなかった。
山古志支所の担当者に少々イライラして問いかけたところ、
「実は、ほとんどの皆さんは、天空の里に移転するか
長岡市内など別の地域に移住するか、とっくに決めているんです。
でも、移転する人は残る人に、残る人は移転する人に悪いと思って
本音を言わないんです。また、倅夫婦の家に移住するしかないとわかってはいても
嫁と姑の問題等で決断できないでいる人もいるんです。」と、言われた。
なるほど、何でも行政が決めることは間違っている。
行政は口出しせずに被災者が腹を決めるまで見守るしかないのだと
今更ながら思い知らされた。
同時に、私は長岡市長は務まっても山古志村長は務まらないなと思った。
【執筆】前長岡市長/(一社)地方行政リーダーシップ研究会代表理事 森民夫(第11話)
328号 2024/9/15
長岡市災害ボランティアセンターの運営 ~良識の狭い輩~
平成17年1月、震災から3が月後、
私は都内の某所で開かれた被災地支援の研修会のシンポジストとして出席した。
そのシンポジュウムが終わり、会場がお開きになった時に、
一人の中年男性が私に駆け寄ってきた。
「なぜ、災害ボラセンは24時間営業しないのだ!災害時は戦場と同じなのだから、
常に開けていなければだめだろう」と怒鳴り込んできた。
このように、自分の考えがすべてで、凝り固まっている人に対しては、
何を言っても駄目だろうと思い、事は穏便に済ませたが、心の中では、
「災害ボラセン万能論か?それは災害ボラセンの役割ではなく、
警察、消防、自衛隊の役割だろう。では、あなたの地域が被災し、
災害ボラセンの運営の中心になったら、今言うように、24時間開設するのですか」
と腹の中が煮えくり返った出来事があった。
また、震災の何年後か、私の職場に、長岡市災害ボラセン宛に手紙が届いた。
差出人は某県の某福祉系の大学の教授からで、内容は、
中越大震災被災地の小学生の言動が、この教授の意にそぐわなかったため、
半ば文句を述べたものであった。
客観性に乏しく、その事象となった背景の考察もしないまま、
一方的に自分の考えを述べたものであるため、私は手紙を破り、ゴミ箱に捨てた。
これは、ごく一部の事例ではあるが、「価値観の押し付け」に陥っていた他ならない。
やはり、これらの課題を解決するためには、
日々の教育を積み重ねていくしかないため、教育の重要性を切に感じている。
【執筆】長岡市社会福祉協議会 本間和也(第11話)
327号 2024/9/14
平成16年(2004年)新潟県中越地震による土砂災害[被害状況]
-土砂災害による甚大な被害②-
芋川流域以外にも多数の土砂災害が発生していたため、
早急に被害規模を把握する必要があった。
10月26日に新潟県知事から国土交通大臣に対して、
中越地震による土砂災害危険箇所の二次災害防止のため点検調査の支援要請があり、
震度5弱以上を観測した地域を中心に土砂災害危険箇所等の緊急点検を行うため
土砂災害対策緊急支援チームが編成され、
その現地本部は北陸地方整備局湯沢砂防事務所破間川出張所に設置された。
国の研究機関の土砂災害専門家の指導の下、
北陸地方整備局、新潟県、関東地方整備局、近隣県、砂防ボランティア等で
構成された延べ508人が10月27日から5日間にわたり活動した。
今で言う国土交通省緊急災害対策派遣隊[TEC-FORCE]による調査である。
この調査では、道路の寸断などが数多くあったことから、
調査員の安全確保はもちろんのこと、無線機、非常食などを持参の上、
調査を実施するよう指示が下された。
【執筆】国土交通省北陸地方整備局湯沢砂防事務所 事業対策官 石田哲也(第3話)
326号 2024/9/13
あれから20年 食の備えは変わったか「ポリ袋調理」
普段の生活では、電子レンジで食品を温め、蛇口をひねればお湯が出て、
食材や食後の食器や鍋を洗うことができることは当たり前となっています。
中越地震でライフラインが停止すると、
食材があっても煮炊きができないため、
開封すれば食べることができる加工食品に頼ることしかできませんでした。
しかし、ペットボトルの水とカセットコンロなどでお湯を作り、
カップ麺やパックご飯を食べることができることが分かりました。
さらに、耐熱性ポリ袋に食材や調味料、水を入れて湯せんすることで、
簡単に調理ができることが分かりました。
米と水がごはんになり、ツナ缶詰とジャガイモにカレールー、
水を加えてツナカレーもできます。
米や野菜は災害時にも食べることができるようになりました。
ポリ袋調理では、一品一人分を袋ごとに作るため、
家族の好みや健康に配慮しながら、一つの鍋で湯せんできます。
簡単な方法ですが、知らなければ災害時に活用できませんので、
時々楽しみながら訓練しています。
【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第13話)
325号 2024/9/12
自助・近助(近所)それから共助(その4)
ご近所でのBBQの話が町内中に広まり、
いつの間にか町内の自主防災会の二代目会長を仰せつかりました。
子供のころ、私の家は靴下の工場を営んでおり、
ご近所さんからは「靴下屋のせがれ」と呼ばれていました。
会社を退職して町内会の行事に参加するようになってからは
諸先輩方から「靴下屋のせがれ」で認知され、
自主防災会を運営する時に何かと役に立ちました。
一般的に「自助・共助・公助」と言われますが、
私は「自助」と「共助」の間に
もっと身近なご近所さんとの人間関係が重要と考えます。
中越地震の時ご近所みんなで支え合い乗り越えてきました。
だからこそご近所のありがたみを感じ、
普段から顔の見える人間関係を構築したいと考えます。
「自助」と「共助」の間に「近助(近所)」を提唱したいと思います。
【執筆】中越市民防災安全士会 小林俊晴(第4話)
324号 2024/7/23
中越地震と私(その10)
発災数か月後、小千谷市教育委員会が小中学校に行ったアンケート調査に、
「震災で得た教訓は何ですか」という質問があった。
児童・生徒からの回答は、第1位から……
「家族の大切さ・絆」
「人々のあたたかさ」
「助け合うことの大切さ」
「生命の大切さ」
「地域のつながり」
教職員の回答は、同じく第1位から・・・・・
「連携の大切さ」
「教職員間のコミュニケーション」
「子供の心のケアの重要性」
「ボランティアへの感謝」
「普段の備え」
いずれも地震の経験から、特段何か知識を得たとか
スキルが身についたということではなく、
その場の「当事者」として、協働や思いやりの大切さを
実感的に感得したということである。
文部科学省は平成25年に資料「生きる力を育む防災教育の展開」を改訂した。
私も足かけ3年この改訂作業に従事した。
P.91~93は、「わたしにできること」と題した小学6年道徳の展開案である。
当時の小千谷小学校の写真も6枚掲載した。
https://anzenkyouiku.mext.go.jp/mextshiryou/data/saigai03.pdf
ここで目指している「自分の役割を自覚し、責任ある行動をとろうとすること」は、
今日多様化する時代であるからこそ求められる姿ではないか。
20年前の小千谷の子供や教師は、実体験を通してそれを学んだといえるだろう。
【執筆】前見附市立見附小学校長 前日本安全教育学会理事 松井謙太(第10話)
323号 2024/9/10
7.13水害の体験談 子ども達を守る覚悟を決めた保育所の松井さん(3/6話)
「待ってろ!すぐに県警と自衛隊に連絡する!ヘリを回してもらうから、もう少し頑張ってくれ!」
ヘリコプターが来てくれればと思いながら避難方法を考えました。
保育所には平屋建ての遊戯室があり、その屋根に2階から出ることが可能でした。
ヘリコプターから救助してもらうならば遊戯室の屋根しかないと考えました。
しかし、2階と屋根の間には転落防止のフェンスがあり、
カギを開けようにもカギが保管してある1階は泥水の中です。
このままでは子ども達がフェンスを乗り越えられないため、
台のようなものをフェンスに渡して子ども達を1人ずつ抱きかかえて
遊戯室の屋根に出ることを考えました。
15:30頃、新潟県警のヘリコプターが来てくれました。
しかし子ども達は怖がっていました。
プロペラの音や風がすごく、また、逞しい救助隊員の姿が怖く映ってしまったようでした。
私たちは「あの人達は正義の味方だよ。」と子ども達に言い聞かせ、
一緒に避難してくれたおじいさんとお父さんの助けをかりて順番にヘリコプターに誘導しました。
1回の救助でヘリコプターには10人ほど乗ることができ6往復していただきました。
最初は新潟県警が、3回目以降は自衛隊が来てくれました。
全員が救助されたのは19:00頃。私が最後の避難者となりましたが、
園庭のブランコの天辺はやはり僅かに水面から顔を出している程度でした。
最初の救助隊の方に、「どこに避難するんですか?」と聞いたら、
「中之島文化センターです」と答えられました。
この保育所から500mほどしか離れていないのに大丈夫だろうかと思ったのですが、
実際に避難してみるとまったく水に浸かっていなくて、ビックリしました。(つづく)
※新潟県中越大震災から20年ということは、7.13水害(新潟・福島豪雨)からも20年。
7.13水害の体験談として、7.13水害から5年後の平成21年に地域の方々にヒアリングし、
信濃川大河津資料館にて紹介したものを読みやすく調整しました。
【執筆】株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第9話)
322号 2024/9/9
高校1年生だった私の体験(13)震災1週間後その3
お金を節約したい気持ちもあり、
その頃の朝食はもっぱらカロリーメイトを2本、
一箱の半分と決めて食べていた。
普段、通学で毎日小出駅から学校まで歩いていた
往復40分の運動をしなくなったにもかかわらず少し痩せた。
平日は校内から授業に通い、
土日だけ親元に帰り過ごす日々が続いた。
冬が近づき、降雪前に武道窪の実家を取り壊すことが決まった。
当日は学校を休むかと親に聞かれ休むと答えた。
震災で壊れた実家を見た直後はあまり実感がわかなかったが、
生まれてからずっと過ごした家が
目の前で大きな重機で解体されていくのを見て、
震災以降、初めて涙があふれた。
地震直後に家を飛び出したきり帰ってこなかった飼い猫が、
その瞬間はなぜか家の前にいた。
解体の異常な物音に警戒しているのか、
作業中ずっと大きな声で鳴いていた。
猫は家に付くというが
「自分の家」が壊されていくのがこの子も嫌なのかなと思い、
それが寂しさを一層感じさせた。
プレハブ住宅に土日だけ寝泊まりする中で、
叔母が作ってくれた白菜とウインナーだけのシンプルな鍋がとても美味しかった。
食料が少ない中でも、こう作ると美味しい、ということを時々教えてもらえた。
【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第13話)
321号 2024/9/8
ガス水道局での災害対応(クレーム対応)
クレームの内容として「水がこない」「給水車が来ない」というのが
やっぱり一番多かったですね。
給水車に余裕があるときは1日2回とか3回とか行けた場所もあったと思うんです。
加えて時間もある程度毎日同じぐらいの時間で行けてたんです。
それが給水車の台数が増減している中で少し到着時間が遅れてしまう。
そうするとまた「今日はまだ水来てない」おかしいなあと。
例えばある避難所の方から「水が来てない」と苦情が来ました。
私はAという水道局の方に「そこにも行ってください」とちゃんと計画をお願いしている。
そのAという水道局の方が水を浄水場に取りに戻ってきたときに、
「すみません、この避難所からまだ水が来ていないという連絡来たんですけど」
って話をして
「さっき行きましたよ」「ですよね。何時ぐらいですか」
「△時ぐらいに行きました」「ですよね」
またそれを確認してそのクレームをよこした方に
「先ほど確認を取りましたら△時に行ったと」
「行ったと言ってるんだけど実際に来ていないじゃないか」
らちがあかないので私は何回かその避難所に行って、
本当はあんまりそんな時間さきたくなかったけど、
避難所に行ってその人と対面でですね、話をしに行きました。
周りの避難されている方に「今日水来ました?」と聞くと
「来ましたよ」と言ってるんです。
これはウソをついたとは思いたくないんですが、
一回来ているのはクレームをした人も分かっていて
「もっと水をよこせ」という意味で言ってたのかもしれないし、
たまたま行った時間にその方がいらっしゃらなくて
受け取れなかったということかもしれないです。
「水が来ない」というクレームがほとんどですよね。ほとんど。
「何時になったら来るんだ」っていう。
お話をすると大体の方は「まあ仕方がないな」と納得いただけるんです。
これは水に限らずだんだんとわがままになっていくという部分は正直あると思います。
もちろん不安な気持ちとかイライラする気持ちがずっと地震の発生から溜まって溜まって、
それが怒りとしてぶつけられるというのはあったと思うんですけれども。
でも理由をしっかり伝えることでほとんどの方は
「わかった。もうちょっと待つよ」と言ってくれたりしました。(つづく)
【執筆】おぢや震災ミュージアムそなえ館 堀澤淳司 インタビュー(第6話)
(中越地震発生当時 小千谷市ガス水道局主任)
320号 2024/9/7
地域復興支援員とは(第9回)
復興支援員として、最初の集まりは山古志会館
(当然おらたるはオープンしていない)200名位だっだろうか。
右も左も分からず、事務局や大学の先生が制度の説明や
これから何をしたらいいのか話されたが、
正直雲を掴むような話で全く理解できなかったことだけは良く覚えている。
暫くは狭い事務所の中で、パソコンを与えられ、
制度のしくみの理解や支援員の研修に参加する日々を過ごした。
2~3ヶ月すると各町内から復興基金の申請書類が支援室に回されるようになり、
書類のチェックや清書を行う作業が増えてきた。
この時まだフィールドとして受け持っている場所はなく、
事務所に来た地区をそれぞれランダムに担当することとなった。
そして支援員として活動を始めて1年が経つ頃、
初めての正式な担当として防災集団移転を行った十二平地区を受け持つこととなる。
(つづく)
【執筆】小千谷市にぎわい交流課 地域づくり支援員 石曽根 徹(第9話)
元小千谷市地域復興支援員(小千谷市産業開発センター所属)
319号 2024/9/6
「中越メモリアル回廊」と中越防災安全推進機構(第1回)
被災地の最前線では、発災直後から
長岡市・小千谷市・川口町(現在は長岡市)が構想・要望し、
復興ビジョンにもその必要性が明記された、
震災の「経験」と「教訓」を継承するための拠点整備に着手します。
当初の構想を基本に地域の声を丹念に聴く作業を繰り返しました。
結果、中越機構は4つのメモリアル施設と3つのメモリアルパークを提案しました。
4つの施設は地域の特性や被災体験を反映して整備され、
それぞれがテーマをもって、地域自らの力で維持・運営される
仕組みづくりを提案しました。
しかも、施設の新設はなく、既存施設(大地震に耐えた施設)の
リニューアルを原則とし、運営に関しても、
地域住民自らが参加するNPO等の組織を設立して、
スタート時は中越機構からの委託で対応することとしました。
地域で立ち上げたNPO等の伴走は、復興基金を活用して実施されました。
「中越メモリアル回廊」と中越防災安全推進機構(第2回)
長岡駅前再開発ビルの2階に「きおくみらい」を整備し、
旧山古志村(現在は長岡市)役場に隣接する既存施設をリニューアルした
「おらたる」(公募により決定。おれたちの居場所の意味)、
旧川口町(現在は長岡市)のゴルフ場レストハウスを
リニューアル活用した「きずな館」、
小千谷市には市民学習センターとして地域に活用されていた施設に
併設した「そなえ館」を整備しています。
加えて、長岡市と小千谷市の領界で発生した大規模崩落現場に
「妙見(みょうけん)メモリアルパーク」を、
大規模な土砂模崩落で堰き止められた河川によって水没した
山古志村(現在は長岡市)木籠(こごも)集落跡には、
「木籠メモリアルパーク」を、
そして震源地として特定された川口町(現在は長岡市)の
武道窪(ぶどうくぼ)には「震央メモリアルパーク」を整備しています。
4メモリアル施設、3メモリアルパーク結ぶ「メモリアル回廊」は、
震災の「体験」と「教訓」を伝承するとした構想を具現化した成果ですが、
追悼や祈念と同等に被災地域の交流人口の拡大を狙った
地域活性化方策の一つでもありました。
【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第13話)
(公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)
318号 2024/9/5
羽賀友信さん かく語りき「第七話 文化の違いを越えて」
ある避難所で、文化がぶつかって大きな問題が起きたんですよね。
中国の人がまとまって来て、「ご自由にどうぞ」って書いてあったから、
自由に持ってたんですよ。毛布もおにぎりも全部。
日本人がブチギレますよね。どっちも悪意がないんですよ。
僕は中国の人に聞いたら、「一大事が起きたら、政府も信用するな。
自分自身で生きていきなさいというのが中国の教えです」と。
僕も初めてわかった。
中国の人は、自由って書いてあるから友達の分も考えて
毛布やおにぎりを持っていこうとした。
だからどっちも悪意はないけどぶつかるんですよ。
僕が行って、「日本の皆さん、この人たちは悪意がない。
中国のこういう文化的な背景があって、こういう行動をさせている。」と伝える。
そして「中国の皆さん、見てください。日本の人は1人1個ずつ持っていってます。
余ったらまた分けますよ。日本には自助、共助、公助で、必ず最後には行政が動く。
食料も来るし、水もくるから心配しないで。」
そういう話で収めたんです。そんなの枚挙にいとまがないです。
なぜそうなのかを理解しないといけない。
違いを超えていくためのコミュニケーションが重要なんですね。
【執筆】長岡市国際交流センター長 羽賀友信(第7話)
新潟県中越大震災20年プロジェクト事務局(中村早希・諸橋和行)
317号 2024/9/4
小千谷市議会 震災復興特別委員会の設置
市議会として、「妨げになることは行わないこと」と申し合わせた。
本当は別な表現をしたかったのだが、
「妨げになること」の内容、結果は、このようなことだった。
・市への要望は町内会長を通じて行っており、この線は崩すべきでない。
・現時点では議会による視察、お見舞等は行わない。
・被災町内会等への要望調査などは災対本部が行っており、
今、議会は行うべきではない。
発災後124日後 2月24日
議員発議による震災復興特別委員会設置について
(小千谷市議会の資料から引用)
平成17年第2回臨時会で早期復旧・復興のための
調査研究を行う震災復興特別委員会を設置した。
本委員会は閉会中も継続調査を行うことができることとし、
市議会において調査し終了を議決するまで継続存置とした。
【執筆】中越市民防災安全士会 関田孝史(第4話)
(震災発災当時は、小千谷市職員 議会事務局)
316号 2024/9/3
和太鼓奏者になるまで(その3)当日
ふと気づくと、部屋は真っ暗。でもよく視えました。
ぐちゃぐちゃになった部屋、
倒れてきたテレビとテレビ台の下敷きになってる長男、
本棚から落ちてきた本で埋もれてる次男。
やけに土臭い空気。
なんとなくガス臭かったのも覚えています。
僕はというと、もたれていたタンスの上に置いてあったプラスチックの
衣装ケースが頭に当たって、本震がきている間、気を失っていました。
ケガはタンコブ程度でなんともなかったんですが、
目覚める前の日常と地震後の異様な空気とのギャップでとても気分が悪かったです。
何度目かの余震を経て、下の階から怒鳴り声が聞こえました。
誰が何を言ってたかなんて覚えていません。
3人とも受け止めきれない何かに押し潰されない様に必死でしたから。
でもその声で動かなきゃいけないと揺れる中、
兄二人が僕を挟んで抱える形で肩を組んで階段を下り外に出ました。
あたりは真っ暗でした。外灯も消え、どこの家も真っ暗。
ちょこちょこ動く懐中電灯や車の光だけでした。
玄関につないでたルクは地震の拍子に鎖が外れた様でしたが、外で待ってました。
父の車がバンだったので席をフラットにして7人と1匹全員で乗り込みました。
みんな空腹と寒さ、続く余震にビクビクしながら固まってましたが、
父と母が真っ暗な傾いた家に米と毛布を取りに行きました。
幸いご飯は炊いてありましたので、おにぎりにして食べました。
父がラジオで情報を集めている片手間にいつの間にか寝ていました。
工場の横スライドのシャッター。
いつもは家にいて、閉める音が聞こえると
両親が仕事を終え家に帰ってくる合図でウキウキしていたのに、
余震で無造作にぶつかり合うシャッターの音が不気味で怖くて仕方なかったです。
【執筆】和太鼓奏者 坂牧颯人(第3話)
315号 2024/9/2
あれから20年 食の備えは変わったか「ローリングストック」
避難所は普段は生活の場ではないため、
事前にライフライン代替の取り組みはありませんでした。
中越地震では、屋外で暖をとるためドラム缶でのたき火は見ましたが、
食事の調理などは自衛隊災害の支援が始まるまでは見なかったと思います。
お湯がなければカップ麺もたべることができませんでしたが、
自宅に戻る事ができれば、登山用コンロでお湯をつくることができ、
災害専用の備蓄品だけではなく、
買い置きしていた麺類やパックご飯なども食べることができました。
しかし、冷凍冷蔵庫の食品は、数日避難している間に温度が上昇し、
また断水や都市ガス停止で調理ができないため、食べることはできませんでした。
現在では、普段の生活で購入し、常温で保存できる食品や生活用品は、
賞味期間の長さに関わらず常に買い置きを欠かしません。
5年ほど前から消費しながら買い足し、買い置きを常に行うことを
ローリングストックとして災害対策として推奨されるようになりましたが、
冬の生活対策では似たような取り組みを以前からしていたことを思い出しています。
【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第12話)
314号 2024/9/1
中越から能登へ ⑤ -被災者・被災地に寄り添った「中越大震災復興基金」-
阪神・淡路大震災をモデルに新潟県中越地震では、
新潟県は3000億円を市中銀行から調達して年利2%で10年間運用し、
国の交付税措置として10年後に賄うこととして、
年間60億円で10年間600億円の復興基金を、財団法人「中越大震災復興基金」で運用した。
財団法人(県知事を理事長に、学識経験者、民間団体、地元の市長等の理事会)が、
民のための「公」として、官の「公」である行政から独立して、
被災者の復興意向に寄り添う被災地復興の支援を展開した。
この取り組みが、中越地震からの被災地復興の最も中核となっている、
被災者主体の復興の仕組みであった。
最も特徴的な取り組みである「手づくり田直し支援」と、
最も活用された「地域コミュニティ等施設再建支援」の事業がある。
前者が、大規模な土木工事ではなく棚田の手直しで時機を失することなく、
被災農家が小規模な重機を使って復旧工事の担い手として取り組む事業であった。
基金で重機をリースし、被災農家には復興工事の手間賃を支払った。
後者では、集落の鎮守、神社、祠、お堂などの修理や建て替えも、
地域コミュニティ施設の修理事業として基金で補助する取り組みであった。
利子の付かない時代で、東日本大震災では、直接復復興交付金として2000億円を交付したが、
財団による運営ではなく行政の直営方式となり、基金の運営が不透明化したとも言われる。
官ではできない“被災者に寄り添って時機を失することなく進める復興まちづくり”には、
このような『能登復興基金』を工夫して、きめ細かく、
被災者に寄り添った復興支援の工夫が極めて重要になっている。
【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第17話)
(新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)
313号 2024/8/31
中越地震、その時何が(その7)
地震発生から4日目、支社のテレビモニターが何か騒がしい。
事務所にはNHKを始め、民放4局のテレビが一列に並べられていて
見比べることができるようになっている。
各局のニュースを見ていると、どうも妙見堰の崩落現場で
行方が分からなかった家族が見つかったようだ。
「生存者がいるらしい」との報道が瞬時に駆け巡り、
現場が一気に色めき立つ。自分もテレビに釘付けとなる。
4日前、震災直後に信濃川沿いの崖が崩れ、
母子3人が乗った乗用車が巻き込まれているとの情報は入っていたが、
詳細は分からないままだった。
東京消防庁の消防救助機動部隊、いわゆるハイパーレスキュー隊が
余震の続く現場で命懸けの救助活動を行っていた。
既に72時間を過ぎて生存が絶望視される中、
突然の生存者情報に報道各社は色めき立ったのである。
最初に現場に到着したのは自分の局の系列局の中継車からの映像だった。
妙見堰の対岸、信濃川左岸から望遠レンズで対岸の崖崩れ現場が映し出される。
オレンジのユニフォームに身を包んだハイパーレスキュー隊の隊員達が
大きな落石が混じる崩落現場の一角に固まっている。
間もなく、次々と各系列局の中継車が到着し、
対岸の崩落現場が映し出されていく。
NHKの中継映像も始まり全局の映像が妙見堰を映し出している。
しかし、明らかにNHKの映像が民放局と違う。
数百メートルも離れた中継車からの映像が民放より遥かに鮮明なのだ。
これはVTRカメラのレンズと映像解像度の性能の違いだった。
民放各局の報道記者がリポートを始めるが、
映像のあまりの鮮明さに自分の目はNHKのモニターにしか行かない。
やはりNHKの機材は当時から群を抜いていた。
放送の現場は機材の良し悪しが決め手にもなるのである。
【執筆】株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第8話)
(元株式会社TeNYサービス 取締役)
32号 2024/8/30
ガス水道局での災害対応(給水車の道案内)
市外から、もちろん県外からもたくさんの給水車で応援来てくださったんですが
「ここに行ってください。こっちに行ってください」
という指示を私のほうで出すには出すんですが、
その場所をもちろん知らない方ばっかりなので、
カーナビが付いていたところもおそらく何台かはあったと思うんですけど、
当時まだそんなに給水車にカーナビがあるような時代ではなかったので。
そうすると道案内の職員が必要なんですね。
1台につき1人が道案内役としてどうしても必要になる。
これはもう市役所の方からお願いをしてもらって空いてる職員…、
空いている職員というと言い方は悪いかもしれないんですが、
少し応援に来てもらってその職員が給水車に乗って道案内をするというところで、
うまい具合に地図か何かを持って
給水車の方だけで行けるような体制を築ければ職員が違うことに従事できたのかな、
という風に今は思っています。
情報伝達と道案内の二つはですね、
今から思うともうちょっと工夫できたのかな、うまくできたのかなと思います。
(つづく)
【執筆】 おぢや震災ミュージアムそなえ館 堀澤淳司 インタビュー(第5話)
(中越地震発生当時 小千谷市ガス水道局主任)
311号 2024/8/29
高校1年生だった私の体験(12)震災1週間後その2
11月1日から高校の授業を再開すると連絡が来た。
上越線はまだ不通が続いていて、
バスや車も和南津トンネルが壊れてしまったので、
私が通っていた小出高校まで毎日通うことは難しそうだった。
そこで学校側の配慮で、川口や小千谷に住む生徒のうち希望者は、
学校内にある部活の宿舎のような場所に泊まって、
そこから授業に通うことになった。
私ともう1人、川口から通う同い年の女の子、
小千谷から通う女の子も居て、毎日がお泊まり会のようで案外楽しかった。
夜は先生が会議室のような場所で勉強を教えに来てくれる日もあった。
朝ごはんは各々で調達、昼ごはんは学校が用意してくれたお弁当を食べていた。
夜は宿舎で用意してもらった物を食べた。
お風呂も毎日入ることができるようになった。
【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第12話)
310号 2024/8/28
被災現場の人と人(その4)
余震が続く翌日、川口町役場駐車場の片隅で「白米おにぎり」が配られ始めた。
前夜から初めて口にする食べ物、炊き上がる匂いに誘われて行列に並んだ。
地域消防団や、食料品店提供のペットボトルを手にする町民に、
おにぎりだけでも提供したいと町役場職員が動き出していた。
コンクリートブロックで「かまど」を作る。
壊れた建物の廃材を持ち寄る。
山に向かった者は生木も収集してきた。
火種にと枯れ枝や本が集められたが、持ち寄った雑誌の幾つかが、
息子の大切な収蔵品であると後で分かったといった難儀な話もあった。
役場職員で西保育園園長 田中京子は、
倉庫から持ち出された羽釜に、農協提供の米と水の量を量った。
生木の燃え方を工夫し、炊き上げの頃合いを注視したが、
最初の炊飯だけは失敗してしまった、と振り返る。
東保育園園長 星野由美子を中心に
「明日の朝の集合時刻は」「準備すべき物は」と集まり、
明け方暗い頃から炊飯を繰り返した。
寿司店鮨政から提供された高価な食材も使い、
炊きあがったばかりの熱い白米を、手を赤くしながら握って行く。
握られた「おにぎり」をあちこちで食べる光景は、
駐車場の緊張と不安の空気に、一時の安堵感をもたらしてくれたと思い出す。
ただ、そのおにぎりを握った保母達が自ら食べる姿を私は見なかった。
【執筆】中越市民防災安全士会 会員 吉原 昌隆(第6話))
309号 2024/8/27
恐ろしかったあの夜
突然に凄まじい音 ゴオーン・・・ドドン~~・・・
(何事かと思う間に)
ヅッシ、ズッシ、ガタガタガタガタ・・・大揺れが来た!!
地震と気づく間の数秒間、家が大きくユラン・ユランと揺れ体が吹っ飛ばされた。
逃げなくちゃ。周辺からは人の悲鳴と泣き声が鳴り響く。
あまりの怖さでどうやって外へ逃げたかは定かでなく、記憶は薄れている。
鮮明に残っている記憶は、真っ暗闇の中、道路に避難していた。
見上げた夜空には星がきれいに光っていて、何故か不思議な風景に思えた。
時折揺れが収まると周りは静寂が戻り、
美しい星空の下をヘリコプターが旋回していて不思議な光景。
地上は家が倒壊し、傾きかけた家々は度重なる余震に音を立ててきしみ、
同時に家々の周辺の空き地や道路に逃げだした人たちの叫び声が続く。
絶えず揺れが続いていて、そのたびに自分もまた周囲からもギャーと悲鳴が上がる。
長く怖い夜が始まった。
時間の経過がわからないまま、数分後に襲ってくる余震。
揺れに震えながら暗闇の中で夜を明かす。
少しずつ夜が白々と明け始め、周囲が見えてきたとき、
私はまた無意識に悲鳴が口を突いて出た。
道路が、電線が、マンホールが変わり果てた姿になっていた。
道路には大きな水溜まりが幾つもできていた。
【執筆】中越市民防災安全士会 石黒みち子(第1話)
308号 2024/8/26
青葉台3丁目自主防災会の歩み 話題(6) 中越大震災3日目25日 以降の対応
防災委員や役員は、町内周辺の道路や歩道橋の段差や亀裂箇所に
危険注意の立て看板や通行止めロープ張りを行い、
2次的事故防止対策を行った。
テレビ等の報道関係は、朝から夕方まで1日中、
全村避難を決めた山古志村の皆さんが自衛隊のヘリで
長岡市内の体育館や施設に避難している光景を報道していた。
地域では強い余震の回数も落ち着き、
仕事に向かう人や自宅に戻り家中の片付けをする人がいて、
日中は避難所の人数も半数以下に少なくなった。
夕方までに、ガス・水道も復旧し、
日常の生活に戻れる事から避難所の人数も大幅に減少した。
翌日の26日からは避難所運営も落ち着いた事から防災員も交代での対応とした。
主な内容は避難者対応や市からの救援物資や住民からの情報の受付
及び市職員との情報のやり取りなど。
27日、地震で地盤沈下した下水道管敷設個所の復旧工事が始まった。
震災から4日と短期の工事に驚き!
(町内からの詳しい被災状況報告と市防災センター職員から迅速な復旧依頼が
被災対応担当部署に報告された事で手配がスムーズに進められたとの事であった)
【執筆】青葉台3丁目自主防災会運営委員長(中越地震当時) 畔上純一郎(第6話)
307号 2024/8/25
災害時こそ「正しい情報」の発信と被災者も「正確な情報」をつかむ心がけが必要
20年前と今とを比べると情報の発信や情報収集の方法が各段に変化を遂げています。
中越大震災が発生した際は携帯電話はあったものの
今のようなSNSや無料の通話アプリのLINEもありませんでした。
当時は夕方に発災し、夜が更けていきました。
報道を担う私たちも被災地でどんな被害があったのかが把握できず、
夜が明けてようやくその甚大な被害を目の当たりにしたことを覚えています。
あれから20年…いまではSNSやLINEなどが発達したことで、
現場に行かなくても社内にいてもさまざまな情報が入ってくるようになりました。
どこでどんな被害がでているのかがリアルタイムでわかるのです。
しかし、大量に入ってくる“情報”が本当に正しいのかを見極める必要があります。
近年では災害発生時は“災害デマ”や“フェイク画像”などが拡散され、
誤った情報が広がってしまうことが問題視されています。
私たちのようはマスコミに携わる仕事をしている人たちは
いかに「迅速にそして正確な情報」を発信することが求められています。
一方で被災者の人たちも真偽がわからない情報に接したときは
「うのみにしない・拡散しない」を徹底して
“信頼できる発信元”の情報かを確認することが重要だと改めて感じています。
【執筆】BSN新潟放送 メディア本部報道制作局 報道部長 酒田暁子(第7話)
306号 2024/8/24
中越大震災20年メルマガ 306号:美味しかった中越(その3)
中越の復興といえば、美味しいものでしょう。
もちろん、ヤマの食べ物もおいしかったのですが、
しがない学生だった私は、ご馳走してもらうことも多く、それも思い出です。
中越復興市民会議のスタッフだったときは、
事務局長だった稲垣さんに、ちょいちょいごちそうになりました。
「みやちゃん、肉食うか」と、北仮設のむかいっ側のレストランでハンバーグ食べたり。
あのハンバーグ、美味しかったなあ。
桐生だったかで、稲垣さんの講演に日帰りでお供した時は、講演前に立ち食いそば食べて、
人生初めての醤油色の黒っぽいおだしの麺類を食べて衝撃でした。
当時、同じく市民会議のスタッフだった鈴木隆太さんにもいろいろご馳走になりました。
おいしいもの、いろいろあったんですが、なぜか印象に残るのは、
現場を行き来する移動の間の缶コーヒーで。
「みやたく、なににする?」と、
いつもおなじみの大容量ブラックコーヒー、ありがたかった。
小千谷でのろしでつながるみたいな催しがあったとき、
のろしなのに大雨でにっちもさっちもいかず、
ひとまず汚い車(ホーミー、汚いのは僕が掃除をしないせい)の運転席で、
フロントガラスにおちる水玉眺めながら、コーヒー飲んでました。
なんだか、食べ物のことを思い出すと、
こんなふうに何気ない時間、瞬間のことが思い起こされるのが不思議です。
けれど、中越の復興は、いろいろな意味で、
こうした「すき間」の時間に大切なことが起きていたんだよなあとも思います。
【執筆】大阪大学大学院人間科学研究科 准教授 宮本匠(第7話)
305号 2024/8/23
地域復興支援員としてスタート(第8回)
造園業として働く中、転機が訪れた。
新潟県中越大震災復興基金事業が開始され、
地域復興支援制度もスタートすることとなる。
小千谷市では先行して、地域経済の復興を目指して
小千谷市の特産品の売り込みや交流を目的として復興支援員の募集が始まった。
私も採用試験に応募するが、受験者は約50人。見事落選となる。
落ち込んでいる中、以前イベントでお世話になった行政の方から
「地域の話し合いの推進や復興基金事業の各種受付を行う地域担当の復興支援員を
小千谷市で行うことになったので、やってみないか」と声が掛かった。
5年の期限付きとのことで迷ったが、妻と相談してやらせてもらうこととした。
そして平成20年4月緊張した面持ちで
当時の事務所である小千谷市民会館に出勤すると、
他の2名の復興支援員と顔を合わせることとなる。
(つづく)
【執筆】小千谷市にぎわい交流課 地域づくり支援員 石曽根 徹(第8話)
元小千谷市地域復興支援員(小千谷市産業開発センター所属)
304号 2024/8/22
羽賀友信さん かく語りき「第六話 ガセネタ要注意」
ある国はガセネタがすごかったんですね。
当時、日本とあんまり関係が良くなくてね。
その国の2人がガセネタ飛ばしたことで大揉めに揉めたんですよ。
人権問題にまで発展しました。
というのも、震災時に図書館に集まったときに
その振る舞いをやんわりと注意されたことを「出ていけ」と言われたと発信した。
実際に確認したら事実ではなかったんです。
長岡市の職員は非常に人道的にやっていた。
1人2人のガセネタがすごく走るんです。
だから国際交流センターが正しい情報を出すっていう役割がものすごい大きいですね。
山古志なんかはガセネタがすごかったですよね。
錦鯉を盗みに外国人の窃盗団が入ってるとかって。
実際はいなかったんですけど面白半分で言う人がいるわけですよ、
とにかく災害で一番怖いのはデマなんですよ。
デマが人を本当に動かす。
特にツイッターとか、SNSはガセネタが今すごい問題になってますね。
【執筆】長岡市国際交流センター長 羽賀友信(第6話)
新潟県中越大震災20年プロジェクト事務局(中村早希・諸橋和行)
303号 2024/8/21
羽賀友信さん かく語りき「第五話 母国語で伝える」
当時、地震体験の無かった国は、中国とオーストラリア、ブラジル。
特にブラジルはカソリックなので、最後の審判が来たって何人かから電話もらったんですね。
「羽賀さん、世界の終わりなのか」
「そうじゃないよ、これは地震っていうんだ」と言っても、すごい動揺するんだよ。
ブラジルの言葉っていうのは、こっち側にはあんまり翻訳できる人がいなかったんで、
翻訳できるところに全部投げて、音訳をしてもらって、FMながおかに送ってもらって、
そっから流したりした。
FMラジオも寄付を募って、1200台ぐらい送られてきたかな。
それをお配りして「これ聞いてね、この周波数で聞くとあなたの言語で流れますよ」と。
それから、ブラジル大使館は特に精神科医を何人か派遣してくれて、
ブラジル領事が直接来てくれて、被災者に向かって話してくれたのでパニックは収まった。
【執筆】長岡市国際交流センター長 羽賀友信(第5話)
新潟県中越大震災20年プロジェクト事務局(中村早希・諸橋和行)
302号 2024/8/20
ガス水道局での災害対応(給水車の配車計画)
ありがたいことに一番多いときで
40台を超える給水車が応援というか駆けつけてくださいました。
災害対策本部には「△△市の水道局の方はいつからいつまで作業ができます」と。
例えば「1週間いることができます」とか
「1カ月いることができます」「3日間しか入れません」とか
それぞれ連絡を受けていたと思うのですが、
それが私のところに正確に伝わってこない。
一番切ないところでした。
例えば40台給水車があります、避難所が何十カ所ありますと、
「この水道局の給水車は明日の午前中はこの避難所とこの避難所。
午後はこの避難所とこの避難所を回ってください」という計画を毎日夜、
私の方で一覧表で作っておいて、40台あれば40の給水車の行き先を全部決めて
翌朝ミーティングを開かせてもらって、
「この通り動いてください」というお願いをしていました。
情報がしっかり入ってきていなくて、
朝になったら頼りにしていた△△水道局さんがいない。
もう活動を終えられて昨日のうちに帰ってしまった。
もちろんその活動が終わってみんな帰るという段階で
黙って帰るわけないと思うんですよね。
私に言わなかったとしても少なくともガス水道局の誰かには
「我々は今日で終わります。また機会があれば応援に来ますので」
というような話をして帰ったと思うんです。
たったこの距離の情報伝達でしかないところがうまくいってなくて
私のところにその情報が入っていなかったことで
朝のミーティングで「△△市さんはいませんよ」という話になる。
そうすると私が前の日に作っていた計画が、
よその事業者さん、水道団体さんに負担が行くんですね。
その時間に翌日行くことができない避難所も出てきてしまうんですね。
そうするとすぐ苦情の電話が入ってきます。
「昨日は10時に来たのに、まだ今日は10時半でになっても来ていないじゃないか」と。
応援に来てくださった各給水車の部隊の方たちは私の指示に全て従ってくださって
「急遽ここにも入ってくれ」というのも全部嫌な顔をしないで対応してくれていた。
水を配る時間は少し遅れたかもしれませんけれども
必要な方の所には届けることができたかなと思っています。
繰り返しになりますが情報が混乱している中でも情報がきちんと整理されていれば
ちょっと苦労が少なくて済んだのかな。
市民の方に迷惑をかけなくて済むのかなっていうのがあります。(つづく)
【執筆】おぢや震災ミュージアムそなえ館 堀澤淳司 インタビュー(第4話)
(中越地震発生当時 小千谷市ガス水道局主任)
301号 2024/8/19
小千谷市議会における当面の対応(その3)
議員の自発的な防災活動として出来ることは何か。
そういう気持ちで議論したにも関わらず、
結果として申し合わせたものは、以下のことであった。
その1
各議員が個々具体の災害対策で気づいたことは、
すべて議長(議会事務局)へ連絡することとし、
それを災害対策本部へ申し入れる窓口一本化方式をとること。
市当局は昼夜を問わず災害対策に追われ、
その状況下に22人の議員が個々に災害対策本部や各課等に市民の要望等
を申し入れると、混乱に拍車をかけることが懸念されたからである。
その2
市長をはじめ市当局は、何をおいても人命救助、
応急復旧に全力をあげなければならない。
妨げになることは行わないこと。
窓口一本化の結果、市民の要望や種々の意見は
各議員から議会事務局へ寄せられ、
全て災害対策本部へ迅速に伝えることができた。
【執筆】中越市民防災安全士会 関田孝史(第3話)
(震災発災当時は、小千谷市職員 議会事務局)