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251号~300号


300号 2024/8/18

長岡市災害ボランティアセンターの運営 ~実のなる木②~

 

(①からの続き)

私は、とっさにリンゴの木を思い浮かべ、ゆっくりとリンゴの木と実を書き終えた。

すると、医師が言葉を発した。

 

「本間さん、リンゴの実は、木から取らないでいると、

 いずれは地面に落ちて沈んでしまうよね。

 これは今の君の心をそのまま映し出しているよ。

 リンゴの実と同じように君の心も地面に落ちている。

 震災支援もここまでくれば、君がいなくても、世の中は動くよ。

 だから、思い切って休みなさい」

 

診察を終え、帰宅後、すぐさま眠りについた。

3日間、家族の誰とも会わず、何も考えず、ただひたすら眠った。

 

4日目の朝、災害ボラセンへ出勤した。

3日間も留守にしたことに対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、

ひっそりと入室したが、私の姿を見た瞬間、

災害ボラセンのスタッフから意外な言葉が聞こえてきた。

 

「本間さん、よく休んでくれましたね」

 

気づけば、周りから拍手の渦であり、うれしかった。

3日間も災害ボラセンを開けていたのに。


 【執筆】長岡市社会福祉協議会  本間和也(第10話)

299号 2024/8/17

今考えて思うこと(第9話)災害時の学習権の保証(1) 

 

中越地震で大きな被害を受けた太田小・中学校は、校舎の使用ができなくなり、

最終的に市内の前川小学校の校舎を間借りしました。

移転先が決まるまでの間、他の小学校の校舎の一部を

お借りしながら流浪の民のような状態でした。

当然その間授業はできず、やることは引っ越し作業を繰り返していました。

 

その年度の暮れ、私は担当者として太田中学校平成16年度の授業数の報告をしましたが、

どうしても一部教科で標準時数(その年度内に行うべき最低授業時数)が

下回っていて補充させることができませんでした。

 

3月くらいだったと思いますが、

県の義務教育課だったか文部科学省だったか忘れてしまいましたが、

突然電話がかかってきました。

 

「太田中学校の一部教科で標準時数を下回っているのはなぜか」

「理由は理解したがこれから補習等で授業を行えないのか」

と冷徹かつ指示的なニュアンスで言われました。

 

このような状態で、授業の不足数をこの程度に抑えるために

全職員が相当な努力をしたつもりでしたので、

無理解に数字だけの改善を求める行政に怒りを通り越して

呆れたことを今でも鮮明に覚えています。 

 

 【執筆】長岡工業高等専門学校 非常勤講師 五十嵐一浩(第9話)

 (前三条市立第四中学校 校長)

298号 2024/8/16

震災の谷の思い出(その1) 

 

旧国道291号が廃道処理された場所があります。

道路が斜面ごと谷に滑り落ち、道路復旧がかなり難しい状況となり、

山古志トンネルを新たに開通させました。

トンネルより先の集落の帰村に時間がかかったのも、

この大工事があったからとのことです。

その結果として、トンネルのわきにある壊れた道路や雪崩止めは放置され、

地震の被害状況を直接的に残す場所となっていました。

ある意味で存置されていたわけです。

 

トンネルの竹沢側の入り口から、この場所を見学することもできたので、

早くから平井先生が「震災の谷」と名前を付けて

被災現場保存して残すべきと意見されていました。

 

当時砂防を担当する部局から、

廃道に沿って流れる神沢川に砂防ダムの建設計画があり、

震災の谷に残る道路等の残骸はすべて撤去することになると聞きました。

住民のガイドさんたちからは、

あそこが地震を直接的に伝える最後の場所だと聞いていたので、

何とか残す方法がないか考えました。

 

ちなみにこの山古志トンネルの銘板は

当時の中学生が書いたものが採用されています。

トンネルの竹沢側にかかる橋の銘板も中学生の手によるものです。

 

 【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第13話)

 (元中越メモリアル回廊担当職員)

297号 2024/8/15

高校1年生だった私の体験(11)震災1週間後

 

高校受験まで通っていた塾の先生から電話があり、

私の地元が川口だと知っていたので、

欲しい物があれば送ると言われた。

靴下や下着が無く困っていることを伝えると本当に送ってくれた。

女性の先生だったのでためらいなく伝えることができた。

中学も卒業していてもう関わりがないと思っていたのに

気にかけてくれたことがとても嬉しくてお礼の電話がとても長くなった。

 

私の実家は養鯉業だったのだが、

県外のお客さんがプレハブを滋賀県から運んできてくれた。

工事現場で使う「スーパーハウス」だったが、

トイレやお風呂まで付いて普通に日常生活ができる豪華版だった。

そのプレハブが実家の脇に設置され、

仮設住宅が出来るまでそこで暮らした。

 

被災して六日町の温泉に避難していた祖父母も戻ってきた。

二家族、計11人が寝泊まりするにはさすがに手狭で、

食事や風呂は水場のあるプレハブ、寝るときは作業小屋にも分かれて寝た。

 

 【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第11話)

296号 2024/8/14

あれから20年 食の備えは変わったか「ライフラインの代替」

 

中越地震で被災する前までは、大規模な地震災害により

ライフラインが停止すれば調理などは何もできないため、

開封するだけで食べることができる非常食を備蓄することと考えていました。

非常食は災害時専用の食品であり、普段は食べずに備蓄するため、

賞味期間は長いほど良いとも言われていました。

 

しかし、被災地であっても事前にライフラインの代替方法を用意して

お湯を作ることができれば、いろいろな食品を食べることができると分かりました。

 

現在、私はペットボトル入りの水とカセットコンロとボンベをストックしています。

バーベキュー用の薪や炭と発熱剤も含めて1週間分はあります。

保管場所の余裕があればこそですが、

地方では買い置きを増やしやすいのではないでしょうか。

このほか発電機や電気自動車のバッテリーなどの備えが増えているようです。

 

水と燃料の備えがまずあれば、

普段に食べている食品の買い置きを災害時に利用できるほか、

賞味期間が短めの食品も利用でき、

食品の種類も増やすことができるようになっています。


 【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第11話)

295号 2024/8/13

災害への意識不足

 

中越地震から20年間が経過しました。

この間、中越地震が発生すると考え、

備えていたという人に出会うことはありませんでした。

恥ずかしながら、私も新潟地震で被災した経験があるためか、

新潟ではもう地震はないと漠然と考えていました。

災害発生があると思わなければ、誰も備えようとしません。

 

中越地震後に松井克浩先生が行った被災者アンケートでは、

翌日から1週間目の間に役に立った支援では、

No.1は食料・食事であり、もっと欲しかった支援でも

No.1は食料(特に野菜・果物)でした。

 

いつ来るか分からない地震のため、

そのためだけの備えはしにくくとも、

何時来てもなんとかなる備えに変えることができれば良いのではと感じました。

ジャガイモや玉葱、リンゴやバナナを災害のために備蓄できませんが、

賞味期間が短くとも常に一定の買い置きを持ちながら

消費する方法であれば、家庭ならできそうです。

新しいライフスタイルが災害対策になればと思いました。

 

  【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第10話)

294号 2024/8/12

半蔵金のイラストマップ

 

中越大震災がきっかけでできた様々なつながりの中で 

やはり半蔵金は忘れられません。

半蔵金は中越大震災の被害が大きかった割に

あまり注目されていなかった地域のひとつでした。

 

その半蔵金がある栃尾地域では

「かりやだ交流会」が定期的に開催されていて、

クリスマスの頃に開催された交流会ではプレゼント企画がありました。

 

そこに出した「あなたの集落のイラストマップ描きます」を

見事引き当てたのが半蔵金の区長さん。

ちょうど半蔵金の何かを残したいと思っていたようで、

区長さんの運の強さには驚くばかりです。

 

完成したイラストマップは後に栃尾地域の復興支援員が

カレンダーに印刷して集落みんなに配ってくれました。

 

そして区長さんは原画を半蔵金の鎮守様に奉納、

とても大切にされているようで本当にありがたく思います。

 

  【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第12話)

293号 2024/8/11

7.13水害の体験談 子ども達を守る覚悟を決めた保育所の松井さん(2/6話)

 

「この建物は流されませんよね!?」

「大丈夫だ!とにかく2階で子ども達をしっかりと見ていてくれ!」

私たちは「ここで子ども達を守る」と覚悟を決めました。

 

幸い保育所2階の未満児室に若干の飲み水やお菓子がありましたので、

子ども達に少しずつ分けて食べさせました。

また、トイレや手洗い水が使えたことも救いでした。

衛生上怖くて飲み水としては使えませんでしたが、それでも幾分か助かりました。

 

14:30頃だったと思います。

園庭の方を見ると濁流は衰えることがないようで、小屋が流れていく様子が見えました。

水位はブランコの天辺がひたひたと水面に顔を出している状態でしたので

地上から2m以上はあったと思います。

 

「このまま水が引かないのだろうか。

夜になったら真っ暗になり、子ども達の恐怖は頂点に達するのではないか・・・。」

私は大きな不安でいっぱいになりました。

 

後の保護者会では「子ども達はしっかりしていて泣くこともなく・・・」と話したのですが、

実際は恐怖に震える子、涙が止まらない子、抱きついて離れない子がほとんどで、

私たちも不安の中、子ども達に「大丈夫だよ。」と声をかけるのが精一杯でした。

 

私は再び役場との連絡を試みました。

「何とか明るいうちに子ども達を避難させてください!」(つづく)

 

 

※新潟県中越大震災から20年ということは、7.13水害(新潟・福島豪雨)からも20年。

 7.13水害の体験談として、7.13水害から5年後の平成21年に地域の方々にヒアリングし、

 信濃川大河津資料館にて紹介したものを読みやすく調整しました。


  【執筆】株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第8話)

292号 2024/8/10

平成16年(2004年)新潟県中越地震による土砂災害[被害状況]

-土砂災害による甚大な被害①-

 

北陸地方整備局湯沢砂防事務所は地震発生の翌日(10月24日)から、

防災ヘリコプターによる上空からの調査や地上調査により

芋川流域に多数の崩壊や地すべり、複数の大規模な河道閉塞が

形成されていることを確認した。

また、地震発生から3日後(10月26日)には学識経験者、

新潟県職員らと合同で、現地調査を実施した。

 

調査の結果、東竹沢地区で発生した河道閉塞では、

閉塞後から上流域で湛水が発生し、

旧山古志村木籠地区の家屋等に浸水被害が拡大していった。

当時、ほぼ毎日、家屋等の浸水被害状況がテレビ報道され、

報道を見る度に、危機感を募らせた。

 

今後、河道の水位が上昇し、河道を閉塞している土砂を越流すると

閉塞している土砂が侵食・崩壊、

さらには、それに伴い土石流が発生する可能性があり、

芋川下流の魚野川合流点付近に位置する旧堀之内町竜光地区に

土砂氾濫による甚大な被害を及ぼす恐れがあった。

 

  【執筆】国土交通省北陸地方整備局湯沢砂防事務所 事業対策官 石田哲也(第2話)

291号 2024/8/9

羽賀友信さん かく語りき「第四話 支援の手が届かない研修生」

 

ブラジルの人たちは、派遣労働者が多かったんですね。

僕、企業に聞いたわけですよ。

そしたら、「人権優先で休ませます」って言ってたけど、

僕のところに相談に来るのは「休ませてもらえない」って。

嘘なんですよ。僕らに対して嘘言ったんですね。

 

研修生がいる企業なんかは、

「うちの通訳がいるから(ボランティアの通訳は)来なくていい」

「ちゃんと食べ物も与えている」

って言うんだけど、実際に接触してみると、

「与えられてない、助けて」って声が出るんですね。

 

だから、そこら辺を鵜呑みにしないというのも大事で、

やっぱり課題を一元化して、共有していくことがすごく大事なんですね。

 

何が起きてるのか、情報は断片的に上がってくるけども、

何となくわかるんであれば、そこを追っかけていけば、一つの答えに行き着きます。


  【執筆】長岡市国際交流センター長 羽賀友信(第4話)

 新潟県中越大震災20年プロジェクト事務局(中村早希・諸橋和行)

290号 2024/8/8

中越復興市民会議と中越防災安全推進機構(第2回)

 

ボランティアとして参加していた学生の中には、

市民会議の復興支援活動に刺激され、

被災地域に移り住む学生も現れました。

しかしボランティア活動であるがゆえに、

復興支援活動には金銭的な限界がありました。

 

時限活動になることを厭わないとしていた市民会議メンバーと話し合い、

中越機構に合流したのは平成20年のことでした。

 

市民会議との合流は、その後の中越機構にとって、

非常に大きな意味を持つことになりました。

今流に言えば、イノベーション(組織刷新)が起きたのです。

多様な主体との連携が可能となり、少なからず産官学民の

ネットワークを想い描くことができるようになったのもこの時期でした。

 

諸外国で発生した大災害からの復旧・復興を調査・分析している研究者、

国内の大地震で自らも被災経験を持つNPOの代表、

長期化する避難所で住民に寄り添っていた社会福祉協議会の職員OG。

また、仮設住宅で見守りを続けたボランティアとの

ネットワークが構築されていきました。


  【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第12話)

 (公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)

289号 2024/8/7

中越地震と私(その9)

 

 

11月30日になり、普通献立の給食が再開した。

12月5日には避難所となっていた講堂が明け渡され、

これにより全校が一度に集合できる場所ができたため、

早速地震後初めての全校朝会が行われた。

このように小千谷小学校(以下谷小)は少しずつ日常を取り戻し始めた。

 

大きな駐車場に、そして時にはヘリポートになっていた谷小のグラウンドに、

寒さに向かう中、自衛隊が設置した避難者用のテントが並んだ。

そして雪が降る前には、幾棟もの仮設住宅が建設された。

 

たくさんの方々が支援してくださった。

あたたかな励ましのお見舞いも、全国各地から頂いた。

現在私の手元にある記録だけでも、個人と団体合わせて204件になる。

 

ある児童が、街中で「見たことのない地名のナンバープレートを

付けた車が走っていること」に気付き、クラスの話題にした。

いずれも支援の車両だ。

 

そのクラスでは、その地名がどこなのか調べ、

拡大した日本の白地図に書き入れていった。

その地図を見ると、まさに日本中から小千谷に支援の車が来ていることが分かった。

地図を見た私も感動した。今も忘れられない。

 

この子供たちは、いずれどこかで感謝の気持ちをお返ししていく日がくるのだろう。

今後、持ち前の誠実さを活かし、

「感謝の気持ちを大切に」益々心をみがく教育を推進しようと、

校長が私たち職員に呼びかけた。

これも鮮明に覚えている。

 

  【執筆】 前見附市立見附小学校長 前日本安全教育学会理事 松井謙太(第9話)

288号 2024/8/6

自助・近助(近所)それから共助(その3)

 

結局、徹夜覚悟でいましたが、

余震に慣れ疲れが出てしまい明け方には全員ウトウト、

夜が明けて朝を迎えたら頭がガンガンしてました。

しっかり飲みすぎたみたいです。

 

いろいろとご近所さんと助け合いながら過ごした夜が忘れられず、

翌年の10月23日に「あの時を忘れない」ようにと当時を振り返って

BBQをやることを企画しました。

 

当時まだサラリーマンだった私は、

仕事をしているふりをして一生懸命テントを設計し、

必要な機材を洗い出して休日に調達し準備を進め、

当日の午前中からテント張りを開始。

それを見ていたご近所さんが手伝ってくれて、

かなり立派なテントが出来上がりました。

 

夕方には参加者が飲み物や食べ物を持参し、

石油ストーブも持ち込みBBQがスタートしました。

隣の班にもうわさが広まり、

参加者が地震の時よりも増えていることに驚きました。

 

  【執筆】中越市民防災安全士会 小林俊晴(第3話)

287号 2024/8/5

ガス水道局での災害対応(避難所への給水)

 

私が仰せつかった仕事は、給水車の配車。

ありがたいことに全国からたくさんの水道事業者の方が

給水車を持って応援に来てくださいました。

 

「△△の水道局の職員の方は今日はこの避難所とこの避難所に水を配ってください」

という計画を立てて毎日何十カ所もある避難所に水を配ってもらう、

というような仕事をしました。

もちろん生きていくために水というのは一番大事なものでして。

 

幸いその水を作る施設がガス水道局の近くの浄水場という施設があるんですが、

その機能は何とか保てておりましたので水をつくることはできました。

道路の中にガス管、水道管が埋まっていますので、

その管がめちゃくちゃになっていることで皆さんの家庭には届かないと。

そんな中で避難所に水を配ると。そういった仕事を仰せつかりました。

 

ガスの復旧作業については東京ガスさんが大挙でいらしていただきまして

「ガスの方は任せとけ」という力をいただきまして。

ガス水道局としては水道の復旧に全力を注ぐことができました。(つづく)

 

  【執筆】おぢや震災ミュージアムそなえ館 堀澤淳司 インタビュー(第3話)

 (中越地震発生当時 小千谷市ガス水道局主任)

238号 2024/8/4

小千谷市議会における当面の対応(その2)

 

阪神・淡路大震災から9年9か月後に発生した二度目の最大震度7の中越地震に、

市民のみならず、大半の議員が被災した中で、

発生時に議員が取った行動は、

各議員の置かれた環境や議員自身の考え方によって異なる。

 

しかし、どのような状況にあっても市民の代表たる議会としては、

災害対策を当局に確実に執行させることが議員の任務であろうと考え、

小千谷市議会としての当面の対応をどうすればよいかを検討した。

 

まず法に基づく行政の役割を見ると、

市町村は住民の生命、身体及び財産を災害から保護する責務がある。

消防機関、「その他」の機関は、市町村に協力しなければならないとある。

その他の機関には議会は含まれていないことがわかった。

 

議会は別の法的枠組みで規定されており、

防災活動には直接的に関与していないのが一般的で、

他の市においても同様であった。

 

  【執筆】中越市民防災安全士会 関田孝史(第2話)

 (震災発災当時は、小千谷市職員 議会事務局)

285号 2024/8/3

被災者のパワーを引き出す復旧・復興!-市長としての心がけ(10)

 -集団移転の成功-

 

中越大震災からの復興事業として、長岡市で成功した集団移転は全5地区にのぼる。

これらの集団移転が実現したのは、実に多くの方々のご協力と

被災者の皆さんの故郷へ帰りたいという強い想いがあったからである。

 

その5地区とは、

①山古志地域の楢木集落(15世帯53人 )

②山古志地域の木籠集落(10世帯24人)

③越路地域の西谷地区 (16世帯71人)

④川口地域の小高地区 (24世帯102人)

⑤小国地域の山野田地区(9世帯227人)である。

 

困難な集団移転が成功した背景には、国土交通省の柔軟な姿勢があった。

次に列記する使える補助事業や制度を総合的に活用したのである。

 

①防災集団移転促進事業

②災害危険区域への指定

③公営住宅整備事業

④地域住宅交付金提案事業

⑤小規模住宅地区等改良事業

 

これらのうち、特に、小規模住宅地区等改良事業は、

本来既成市街地のための事業であったのを拡大して解釈していただき、

新しい住宅地に適用してもらった。

この長岡での初の事例は、中越大震災以後の各種災害にも役に立っていると聞いている。

 

  【執筆】前長岡市長/(一社)地方行政リーダーシップ研究会代表理事 森民夫(第10話)

284号 2024/8/2

中越地震、その時何が(その6)

 

中越地震の際も多くの家屋が倒壊したが、

阪神淡路大震災も同様に多くの家屋が倒壊した。

約7000人に及ぶ犠牲者の死因の8割が倒壊した家屋の下敷きによる圧死である。

 

神戸市内のとある住宅街を取材した際のことだ。

一見普通の住宅街なのだが、その風景に違和感を覚える。

目を凝らしてみると、その違和感の訳を知る。

通りに面した家屋の殆ど全ての1階部分が潰れ、

2階部分だけが建って並んでいるのだ。

「何だ、これは…」。異様な光景に戸惑いを覚えた。

犠牲者の多くは、1階部分に寝ていた人たちだった。

 

全国から集まった記者仲間と「1階で寝てはいけないな。2階で寝なければ」と

話し合ったことを今でも鮮明に覚えている。

 

専門家ではないので詳しいことは分からないが、

直下型の大きな地震で突き上げられ、下に落ちる瞬間、

その重みに耐えられず1階部分が潰されたと言われている。

巨大なビルの真ん中の階が潰れたのも同様の事象と解説があった。

部屋のテレビが何メートルも飛んだということを聞くと、

如何に凄まじい縦揺れが襲ったのかということが分かる。

 

防災対策の1丁目一番地が地震対策であることは言うまでもない。

台風や水害はある程度予測が出来るが、

地震の予測はできないと専門家も匙を投げている状況である。

発生することは確実なのだが、いつ、どこで発生するかは予測不可能な今、

私たちがやるべき災害対策とは何か。

今一度、基本に立ち返って検証する必要があるのではないだろうか。

 

完全な防災は有り得ない。不可能である。

能登半島の地震災害を見ると、改めて人間の力など及ばないことを痛感させられる。

必要最低限の防災対策を徹底するしかない。

災害現場に理想論は通用しない。


  【執筆】株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第7話)

 (元株式会社TeNYサービス 取締役)

283号 2024/8/1

高校1年生だった私の体験(10)10月28日続き

 

食料がなくなり買い出しに行かなければならなくなり、

母の車に乗って隣町の小千谷まで出てみた。

コンビニに寄ってみたが、

お酒やケーキなどの贅沢品だけが見事に残っていた。

 

家族が必要な食料がほとんど買えない中、

翌日が16歳の誕生日だった私に母がショートケーキを一切れ買ってくれた。

 

その頃、自衛隊のお風呂が東川口の河川敷に出来たと噂を聞いて

母と叔母と女性3人で入りに行った。

大きなテントの中に、湯船がブルーシートで作られていて入浴剤が入っていた。

女性の自衛隊員が外と中に立っていてくれて、

安心して入ることができありがたいと思った。

帰る途中の東川口の土手の上で見た月がすごく赤かったのを覚えている。

 

上川保育園の園庭には自衛隊のテントがいくつか張られていて、

ひと晩そこで過ごした。母と叔母、私と弟の4人で入ったように思う。

寝付けなくて外に出ると、焚き火がありそこで暖をとった。

起きている人が自分だけではないことが嬉しかった。


  【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第10話)

282号 2024/7/31

被災現場の人と人(その3)

 

発災の日の月夜の下、

川口町役場庁舎設置の震度計が記録した「震度7」が送信されず、

1週間後に確認されこととなる事を話題にする者は誰もいなかった。

 

庁舎前駐車場には、各集落の状況を心配する声、

「傾いた自宅が今の揺れによって倒壊したのではないか」と、

自宅の確認に走る者。

誰も皆、強い余震に怯え、目の前の事態に対応するだけだった。

 

隣の小千谷市内で本震に揺れた妻と子が、

8キロを歩いて戻り、夜半に駐車場で再開した。

 

明るくなる頃には、役場職員も増え、

本部といえるような一団が作られていった。

ただ、町内各地の被災状況の把握も出来ない。

家屋倒壊や怪我人の情報も交錯するなど、役場前は混乱の中にあった。

 

そうした中、記憶すべき光景がそこにあった。

若い親が自宅被害の確認などに駆け回るその時、

小中学生達が幼児を預かり、「青空保育」を始めていたのだった。

誰かに指示されたものではない。

地域の混乱の中で、誰も彼もが余震に怯える中で、

自ら行動する姿がそこにあった。

 

  【執筆】中越市民防災安全士会 会員 吉原 昌隆(第5話)

281号 2024/7/30

和太鼓奏者になるまで(その2)あの日

 

20年前。当時は種苧原の一番端。

魚沼から来たら一軒目の崖の上の実家に、

両親と祖母、四人兄弟と犬のルクの8人家族で生活していました。

山の中での暮らしなので目新しいものはなく、

兄の真似をして遊んだり、喧嘩して親に怒られたりと言った毎日。

 

当時の僕は、人見知りで引っ込み思案で恥ずかしがり屋、内気でした。

なので、活発でいろんなところに僕を連れ出して

遊んでくれた兄たちが輝いて見えてました。

弟は当時4歳になったばかり。

ばあちゃんや両親にくっついていました。

 

両親は自営業で車の整備士をしており、自宅の隣に工場があり、

車だけでなく農機具の修理や整備などの仕事をしていました。

 

震災当日。あの日は土曜日でしたが、

両親は朝から工場で仕事をしていました。

稲刈りが終わった頃だったので、コンバインの清掃や点検、

秋口の車検のための整備で毎日忙しそうでした。

僕たち兄弟は1日中、

ゴロゴロしてたりゲームしてたりしたんじゃないでしょうか。

 

夕飯は、焼肉。仕事がひと段落したというのと、

うちみたいに人数が多い家族は何かにつけて焼肉とかしがち。

 

母はコンバイン清掃から戻ってきてお風呂、

祖母、弟、父は居間のこたつで焼肉の準備。

兄二人と僕は2階の部屋で長男がテレビでゲームしているのを見ていました。

長男のゲームを見ながら自分もやりたくてうずうずしていたのを覚えています。

結局やらせてもらえずタンスに寄りかかっていじけてました。

 

その時です。パッと電気が消えました。

 

  【執筆】和太鼓奏者 坂牧颯人(第2話)

280号 2024/7/29

長岡市災害ボランティアセンターの運営 ~実のなる木①~ 

 

長岡市内の被災者の仮設住宅入居が、あと数日で終わり、

災害ボラセンも転換期を迎えようとしていた。

しかし、私の心はなぜか晴れない。

理由はわからないが、日に日に朝を迎えるのが怖くなってきた。

感情のコントロールができない。

 

職場の窓から信濃川の土手を眺めていると、

無表情なのにも関わらず、知らずに一粒、二粒涙がこぼれてきた。

もう限界だ!そう思った瞬間、

「しばらく休ませてくれ」の一言を残し、その場を去った。

 

病院に行かなければならないと思い、

勇気を振り絞って、心療内科クリニックに行った。

診察では、災害ボラセンのチーフとして、

約2か月間、休みなくがむしゃらになって活動してきたこと。

全国からの支援者が押し寄せる中で、神経をすり減らしたこと。

この後の長岡のまちはどうなってしまうのだろうかなど、

すべてといっていいほど医師に打ち明けた。

 

医師は、相槌を打ちながら、話を聞いてくれた。

話が終わった後、医師はおもむろに口を開いた。

「本間さん、ここに紙と鉛筆があるから、紙に『実のなる木』を書いてください」

(②に続く)


  【執筆長岡市社会福祉協議会  本間和也(第9話)

279号 2024/7/28

復旧への始まり(第7回) 

 

平成17年3月末、私は町内会長としての任期を終了することとなった。

雪解けを待って、倒壊した家の撤去や再建に向けての動きも始まった。

 

仕事にも復帰した私は、イベント業という職業柄、

復旧、復興に向けた仕事も入ってくるようになった。

特に山古志住民の仮設住宅がある青葉台には

慰問団体の受け入れ準備の資材を届けるために何度か通った。

 

そんな中、「地震の時にはたまたま小千谷にいてすぐに帰れたが、

いつもそうとは限らない。できれば家族や地域の近く、市内で仕事をしたい。」

という思いがこみ上げ、長岡の会社を退職することとなる。

 

退職後は、長期休みをとれるチャンスだと思い、

自動車の大型免許や大型特殊の免許を取得した。

そんな中、仲間の造園屋の社長から

「忙しいからちょっと手伝いに来い」と言われ、

そのままズルズルと仕事をすることになる。

(つづく)

 

  【執筆】小千谷市にぎわい交流課 地域づくり支援員 石曽根 徹(第7話)

 元小千谷市地域復興支援員(小千谷市産業開発センター所属)

278号 2024/7/27

羽賀友信さん かく語りき「第三話 不安を抱えた外国人被災者」

 

声を上げられない潜在的な被災者が一番弱いんですね。繋がっていない。

孤立していて、こっちからローラーかけて、

「知り合いで他に困ってる人いない?」って聞いていくと、

そこから次々と被災者が見つかるんですよ。

 

被災者が不安になる一番の原因はタイムラインが見えないことなんですよ。

この後、いったい我々はどうなるのか。

ここにいつまでもいれるのか。それともどっか行かなきゃいけないのか。

だからタイムラインを示してあげる。

「緊急避難所っていうのは、ここでいいんですよ」って。

 

それから、やっぱり日本人だらけで怖いと感じてしまう。

そういう人たちはどこ行ったかというと、駐車場なんです。いっぱいいたんですよ。

指定避難所以外でも避難所として指定してくださいって言えば、

そこに食料が届くっていうことを教えて、

「あなたが何人分必要かをまとめておいて。僕が聞きに来るから。」って指示をした。

全体像が把握できる、俯瞰できる能力を持った人が1人いないとだめなんですね。


  【執筆】長岡市国際交流センター長 羽賀友信(第3話)

 新潟県中越大震災20年プロジェクト事務局(中村早希・諸橋和行)

277号 2024/7/26

中越大震災の体験-外国籍市民の声-(その10 インドネシアの方)

 

The chuetsu earthquake that occurred on October 23rd,

2004 was the first experience for me to be in such great disaster.

 

In my homeland,Indonesia even it was an earthquake area also but 

there was no such big earthquake occure 

before tsunami in Aceh on December 26, 2004.

 

I think the most important thing that 

someone should think when face such disaster

like earthquake, flood, or thypon 

is to be calm that the disater will not kill us. 

It is only natural phenomena.

Just be strong as strong as that you can.

 

I hope we all will be ready for any disaster in future if it come.

Ganbareee!!!

 

 

2004年10月23日に起こった中越地震は私にとって、

このようなひどい災害に見舞われた初めての経験でした。

 

私の国、インドネシアも地震地帯ですが、

2004年12月26日にアチェで起こった津波以前には

このような大きな地震はありませんでした。

 

私は、地震や水害、台風のような災害に直面したときに、

人々にとって一番大切なことは、

そのような災害は私たちの命を奪うわけではないので

落ち着いて前向きに行動するという事だと思います。

それらは自然現象に過ぎないのです。 

 

私は、私たちが将来また災害が起きた時でも今回の経験を生かして、

災害に負けてしまわない事を願っています。

がんばれ!!

 


  【執筆】「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第13話)

  協力:国際交流センター「地球広場」

276号 2024/7/25

ガス水道局での災害対応(職員参集)

 

車の中に家族が避難したので車は使えないということで、

50ccのスクーターに乗ってガス水道局に向かいました。

 

ガス水道局にとりあえず着いたのですが、停電で真っ暗だったこともあるし、

正直なところ夜何もできないということもありましたので、

たどり着けた職員で、余震が続く中なんですけど建物の中に入って。

 

ガス水道局は職業柄二十四時間体制でお仕事をされている方もいますので、

布団があったりとかしますし、防寒具をそれぞれ持っていましたので

手分けをして布団なんかを運び出す。

誰のでもいいので、ロッカーから着れるもの、履けるものを運び出すという作業をして、

もうあとは運び出した布団を使いながら仮眠を。

明日から大変なことになるのはわかっていますので

とりあえず体力を無駄に消費しないという意味で

「休む」という指示が出たのが最初の日でした。

 

私の家は比較的ガス水道局に近い所でした。

ガス水道局は職員もほとんどの方が小千谷市内だったと思うんですけれども、

どうでしょう、半分ぐらい職員が集まれたかどうか。

40人50人くらい全体ではいたと思うんですけども、

半分くらいはその日のうちに来れたのかな。

中には翌日になってもなかなかたどり着けないという方も、

道路事情等で難しかった方もたぶんいたと思います。(つづく)


  【執筆】おぢや震災ミュージアムそなえ館 堀澤淳司 インタビュー(第2話)

 (中越地震発生当時 小千谷市ガス水道局主任)

275号 2024/7/24

ライフラインの被害と災害時の食

 

中越地震では電気,ガス、水道等のライフラインが突然に、一斉に、

広範囲に途絶し、被災地にでは、いつ復旧するか分からない状況が続きました。

小千谷市では、結果として電気が95.2%復旧するに9日、

水道では復旧まで83日、ガスは64日でした。

 

食べるには水かお湯が不可欠です。

乾パンやククラッカー、お菓子などは包装容器の封を開けるだけで

食べることができますが、飲み込むには飲み水が必要です。

水を注いで食べることができる食品にはアルファ化米がありますが、

インスタント麺にはお湯をいれる必要があり、

パックご飯は湯せんする必要があります。

 

このように食品だけ被災地に届いても、

水やお湯がなければ食べることはできませんでした。

逆に、予め水とお湯を作るための燃料やコンロの備えがあれば、

その後に何が届いても食べることができることを実感しました。

カップ麺が届いたのに、お湯がないため食べることができないという話は、

今でもあるようです。

 

【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第9話)

274号 2024/7/23

今考えて思うこと(第8話)

 

私は自身の被災経験から、災害に直面した時に災害そのものへの恐怖、

そして死傷者を目の当たりにした時に自分自身に係る精神的なダメージはかなり高かった。

そんな時提供された非常食は、菓子パンやお菓子、おにぎりなど炭水化物ばかりで、

そのためか避難所にいたかなりの人が徐々に衰弱していった。

 

新潟県中越地震では52名が災害関連死と認定された。

その原因として車中泊によるコノミークラス症候群、

精神的あるいは身体的ストレスによる心筋梗塞・脳梗塞等があげられる。

その他、風邪や肺炎が流行したほか、

避難所生活およびその後の仮設住宅における生活で、

運動不足と孤立により高齢者の心身が急速に衰える廃用症候群が広がり、

震災後、被災地では病死が例年の2倍程度になっており、震災の影響が指摘されている。

 

人が緊張状態を長く続けた場合に必要な食事、栄養素があり、

それはバランスの取れた食事とビタミン類だと考えている。

さらに、美味しさも必要な要素である。

 

これまで災害時は、取りあえず空腹をしのぐことを考えたが、これは平時の発想である。

平時においては、時間がないから取りあえずパン、というような発想は

その人の健康に直ちに大きな問題にはならない。

しかし、非常時に襲う不安感、恐怖心を緩和させ、

健康被害を軽減させるために美味しさやバランスの取れた食事が必要となる。

このような食事がいわゆる幸せホルモンと呼ばれるドーパミンやセロトニンを分泌し、

精神的な安定を図る一助となる。

エビデンスは示せないが、熊本地震でも問題になったエコノミークラス症候群も

背景には偏った食事があると考えている。

 

【執筆】長岡工業高等専門学校 非常勤講師 五十嵐一浩(第8話)

 (前三条市立第四中学校 校長)

273号 2024/7/22

震災のきおくを全国へ、世界へ、みらいを担う子どもたちへ

 -中越メモリアル回廊と「きおくみらい」-

 

長岡震災アーカイブセンター「きおくみらい」は、

2004年の新潟県中越大震災の発生とその後の復旧から復興、

地域再生に至るあゆみを保存、伝承する取り組みとして始まった

「中越メモリアル回廊」の基幹施設として2011年10月、

中越大震災から7年目を機に開設された。

 

開館当初の施設コンセプトは、中越大震災の被災地域の全体像を紹介する

床面の空撮写真のほか、震災の各種データを閲覧できるコンテンツを整備し、

文献書籍の収集と保存管理やデータベース化を行う「アーカイブセンター」の側面を担った。

 

一方で、中越大震災の被災地域は旧北魚沼郡川口町の震源(震央)を中心に、

小千谷市、山古志村、栃尾市、長岡市などに複数の自治体に及んでおり、

被災直後からの各地域の避難行動、復旧過程、復興に向かう足並みなど、

それぞれ独自の経過を歩んできた。きおくみらいでは、それら各地の復興のまちづくりの手法や、

各地の住民主体の地域再生の活動など、中越大震災からの復興の足取りを

一元的に紹介するゲートウェイの役割も担ってきた。

 

きおくみらいの運営を担当するスタッフは

同時に中越メモリアル回廊全体のコンシェルジュ(案内役)の役割を担い、

全国から中越を訪れる来訪者に対して、

目的、要望に応じた最適な見学コースを提案した。

 

【執筆】長岡震災アーカイブセンターきおくみらい 担当マネージャー 赤塚雅之(第1話)

272号 2024/7/21

小千谷市議会における当面の対応(その1)

 

中越大震災のとき小千谷市議会がとった当面の対応を振り返る。             

発災当時は議会事務局の2年目であった。

 

当市の「地震等災害時における処理マニュアル」により、

職員は震度5強以上の地震が起きた場合は、

連絡がなくても全員登庁することになっていた。

 

自宅は小千谷市役所に近く、

家族をアテーナ小千谷店駐車場に避難させた。

ここは町内自班の一次避難場所で数人が集まっており、

私は市役所に駆けつけた。

 

1階の入口に入ろうとしたときに、大きな揺れが来て、

付近にいた人は一斉にしゃがみこんだ。

当直室で電話が鳴っていたが、

ガードマンは対応できずにいたので、

中に入り受話器を取った。

 

そこから5日間にわたる電話対応が始まった。

この時、市の災害対策本部は消防庁舎前に設置されており、

市庁舎は真っ暗で内部の状況は全く分からなかった。

 

【執筆】中越市民防災安全士会 関田孝史(第1話)

 (震災発災当時は、小千谷市職員 議会事務局)

271号 2024/7/20

青葉台3丁目自主防災会の歩み 話題(5) 中越大震災2日目24日 町内及び避難所対応

 

夜中の1時過ぎ、長岡市から飲料水が少し届いた。

水運搬車は配送後に行くとの事で、避難所内に飲料水を入れる容器が無い事から、

町内防災会で用意しているクーラーボックスやジャグジーを用意し、

朝まで一次保管し、朝の飲料水にする事とした。

 

翌日も晴れとなり、早朝から防災員や避難所にいる町内役員で

被災状況を確認する事とした。

屋外の道路や電柱、斜面の崩れ等の状況を手分けして確認する事にした。

 

その結果、家屋では倒壊や火災の大きな被害はなかったが、

本棚や食器棚の倒れテレビ等、器物の落下破損等が多くみられた。

道路では上下水道配管箇所の地面沈下、

家の裏に亀裂が入っている箇所が数カ所確認された。

明らかに危険と思われる場所には、町内で行事用に保管していたブルシートで

亀裂を覆い雨による土砂崩れ予防対策を午前中に終わらせた。

下水道敷設道路の地盤沈下も市に連絡し、早急の復旧を依頼した。

 

日中に飲料水やパンやバナナ等の救援物資が届く(配布時の約束事を黒板に表示)。

飲料水は大勢集まり長蛇の列ができた事から、

急遽、給水量を‟世帯人数×7L”とする事で多くの人に行き渡るようにした。

又、日中避難所内人数が少ない中、

救援物資の運搬に多くの中学生が進んで手伝う頼もしい光景が見られた。

 

午後からは各世帯の家屋の被災状況と今後の避難対応等を確認する事にした。

訪問する世帯で地震発生から避難所運営まで自主防災委員の動きに労いの言葉を頂戴した。

又、町内のご近所が集まり食材を持ち寄り、バーベキューをやっているのが見かけられた。

夜中の11時頃に避難所に突然照明がつき、誰ともなくウォーとの歓声と拍手がおき、

重くのしかかっていた不安と緊張感の空気が一変した。

 

【執筆】青葉台3丁目自主防災会運営委員長(中越地震当時) 畔上純一郎(第5話)

270号 2024/7/19

高校1年生だった私の体験(9)10月28日

 

私が川口に帰った翌日の朝、

上川保育園の園庭で自衛隊の方が炊き出しをしてくれた。

 

保育園まで歩いて向かう途中、手の爪の中、

手の皺などが黒く汚れているのに気づいた。

何日も風呂に入れていないので当然だったが、

この姿で地元の顔見知りの人達がたくさんいる中に行くのが

恥ずかしくて嫌だなと思った。

 

炊き出しでは、温かい、具の入ったラーメンを朝から食べた。

それまで何日も、菓子パンやおにぎりなどを食べる生活が続いていたので、

なるとやネギ、メンマなどが入っていることが本当に嬉しかった。

多分、この時の経験がもとで具だくさんの汁が大好物になった。

 

それと、炊き出しのところで近所の人から

火事場泥棒が出ているようだという噂を聞いた。

見慣れない顔の人には気をつけろと言われた。

 

【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第9話)

269号 2024/7/18

7.13水害の体験談 子ども達を守る覚悟を決めた保育所の松井さん(1/6話)

 

ある子どものお父さんとおじいさんが迎えに来てくれて、さて帰ろうかというときでした。

ふと、玄関の扉に目線を移すと、ガラス越しに床から20cm程の高さまで

泥水が流れている様子が見えました。

「子供たちが危ない!」

そう思った私たちは1階でお昼寝をしていた子供たちを起こして2階に連れて上がりました。

 

2階にあがった子どもたちは眠いのと怖いのとが重なり、

ほとんどの子どもが泣いていました。そのときでした。

「パリン!」という音とともに窓ガラスが割れて保育所の中に泥水が入ってきました。

同時に電気が消えて、電話を含む全ての電気製品が使えなくなりました。

 

そのときは66人の子どもと9人の職員、

一緒に避難してくれたお父さんとおじいさんの2人がおりました。

「おばあさんに連れられて先に帰った子供は大丈夫だっただろうか・・・?」

とふと思いましたが、迫り来る泥水から子供たちを守ることで精一杯でした。

 

携帯電話を使って何度も役場に連絡を試みましたが、なかなか電話がつながらないのです。

それでもほかに助けを求める手段もなく、数十回目でしょうか、

ようやく役場に電話がつながりました。

そして私は開口一番にこう聞いたのでした・・・。(つづく)

 

※新潟県中越大震災から20年ということは、7.13水害(新潟・福島豪雨)からも20年。

 7.13水害の体験談として、7.13水害から5年後の平成21年に地域の方々にヒアリングし、

 信濃川大河津資料館にて紹介したものを読みやすく調整しました。

 

【執筆】株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第7話)

◆ここまで

268号 2024/7/17

美味しかった中越(その2)

 

中越地震がきっかけでできたボランティア同窓会。

その中のメンバーが活動場所を探していたときに

元竹田集落担当の復興支援員の紹介で竹田集落の除雪に来てくれることに。

 

この年は2011年、東日本大震災もありましたが、

「東日本はまだボランティアがどうこうできる状況ではない」

との判断で大雪の竹田に来ることになりました。

 

除雪をしたら地元の飲食店でお昼、

午後の除雪が終わるとえちご川口温泉に入って家に戻って一杯。

最終日は午前中除雪をして道の駅越後川口あぐりの里でお土産を買って帰る。

助かるだけでなく楽しい時間となりました。

 

コロナ禍前までは毎年来てくれましたが、

その後はメンバーも定年になり「もう行くことはない」との電話がありました。

それでもたまに電話をもらうと嬉しくなって晩酌が少し多くなったりします。

メンバーの中には埼玉の川口の人(故郷なのでほぼどこに住んでるかわかる)もいるので

「こっちから行ってみようかな」などと思ったりします。

 

【執筆】大阪大学大学院人間科学研究科 准教授 宮本匠(第6話)

267号 2024/7/16

地震発生、車の中に避難

 

地震の当日、自宅で被災をしました。

わが家は夕飯が大体早い部類の家族だと思うので、ちょうど夕飯の支度ができました、

さあ食べようというタイミングで地震に遭いました。

 

どのお宅もそうだったと思うんですが、揺れが強くなってすぐ停電。

電気はもう真っ暗になって、外も暗かったので本当に何も見えないような状態の中で、

とにかく四つん這いに自然と体がなって、

「揺れが早く収まってくれ」と祈っていた状態だったと思います。

 

1回目の揺れが収まって最初に、懐中電灯を探さないと真っ暗で

とにかく避難することができないという思いがありまして、

懐中電灯が普段は置いてある場所に探しに行ったら、

当然なんですけれども転がっていてそこにはない。

手探りで真っ暗な中、「懐中電灯、懐中電灯」と言って

懐中電灯を探し出せなくてちょっとパニックになったのが最初のパニックでしたね。

 

懐中電灯をやっとのことで見つけて、割れた食器を避けるように、

足元に気をつけながら、1回外に出るという行動をとりました。

家の高床の車庫部分から、家の近くにあったちょっと広いスペースに車を出して、

当時まだ一歳にならない子どもと両親と妻と、とりあえず車の中で避難をした。

もう一人、実は当時寝たきりの祖母がいまして。

祖母も助けないといけないという中で、私が車を出してすぐ家に戻って

祖母をおぶって車の中まで連れて行ったというところが最初にとった行動でした。

 

停電してますし情報が欲しかったんですね。

幸い車にカーナビが付いていましたので電源をつけたら、

当時の市役所の方が電話か何かで答えているという状況でした。

私も市の職員ですので、職場に行かなければならないという状況なんだなと

いうのが分かりまして、大きい余震が終わるまでは家族と車の中で

不安な気持ちで過ごしていたということになります。(つづく)

 

【執筆】おぢや震災ミュージアムそなえ館 堀澤淳司 インタビュー(第1話)

 (中越地震発生当時 小千谷市ガス水道局主任)

266号 2024/7/15

やまこし復興交流館準備室のこと 

 

山古志地区に展示施設を作るにあたって、

帰村の時期が遅かったこともあって、設置する場所も、

内容も決定に向けて予定よりもずいぶん遅れていました。

館の運営責任者、運営主体をどうするのか、

しっかりと地域との合意形成、つまり話し合いが足りないとの判断から

復興交流館は他施設よりも開館が2年遅れることになりました。

 

その調整と準備のために向田にあるロータリーハウスの一階に

復興交流館準備室を設置しました。

私と齋藤隆さんと二人、机を並べてのスタートでした。

 

準備室とは言え、見た目も大切だと、

すぐ近所に住んでいた山古志住民会議代表である星野勇さんが、

確かイチョウの板だと思うのですが、

ピカピカに磨いた看板を用意してくださいました。

そこに山古志魂のロゴを揮毫された書家の柳瀬望美さんを紹介いただき、

「やまこし復興交流館準備室」と書いていただき掲げることになりました。

 

ここに事務所を構えたことで、古民家の調査や村の文化財としての民具のこと、

住民へのインタビューなどを通じて山の暮らしに触れることもできました。

平井先生が隣にお住まいでしたので、

作戦会議は毎日できるしそれは良い環境でした。

 

ただ冬の寒さが大変でした。

なかなかの広さがある空間です。

部屋をすべて暖める事なんて無理でした。

そこでエアキャップのロールを購入して、

天井からそれをぶら下げて部屋を区切り個室を作って、

そこで灯油ストーブで暖を取りました。

大雪の日は、除雪作業を部屋から頭上で雪を飛ばす除雪機を見守り、

夏には草刈り機をぶん回しながら、

地域の人たちの顔なじみを増やしたのでした。

 

【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第12話)

 (元中越メモリアル回廊担当職員)

265号 2024/7/14

7.13水害の体験談 見附市内の工場に勤務されていた安達さん(その3)

 

※7月13日(昨日)で、7.13水害(新潟・福島豪雨)からも20年をむかえました。

 本文章は、7.13水害の体験談として、7.13水害から5年後の平成21年に

 地域の方々にヒアリングし、信濃川大河津資料館にて紹介したものを、

 読みやすく調整したものです。

 

工場内は泥やゴミで埋め尽くされており、機械は全て泥水に浸かり、

とても操業できる状況ではありませんでした。

保険の査定が終わり、片付け始めたのは1週間後だったと思います。

泥出し、ゴミ出しに1ヶ月、工場内の清掃・消毒、

機械の清掃・修繕に3ヶ月かかりました。

10月にようやく操業でき軌道に乗りかけたと思った矢先の地震発生。

工場は再び壊滅的な状況となりました。

さすがに気力を削がれました。

 

刈谷田川は暴れ川で昔から堤防決壊を繰り返していたことは知っていましたが、

まさか、自分がその被害を受けるとは思ってもみませんでした。

事前に情報を知っていれば、車をダメにすることなく、

死ぬかもしれないという恐怖感を味わうこともなかったかもしれません。

可能ならば、外出中や旅先でも情報を入手できる、

年配の方でもわかりやすく入手できる、

そのような情報提供・入手のしくみがあれば、なお良いと思います。

 

また、日常的な知識として、周辺の地形を頭に入れて置けばよかったと感じています。

私は車を濁流が流れてくる下流の高台に移動してしまいましたが、

上流の方へ移動したほうが良かったです。

それに避難経路を覚えておくことも大切だと感じました。

 

今回の水害で、民家に避難させてもらったことは非常によい判断でした。

形振り構っていられない状況であったのは確かですが、

この判断がなければ濁流に流されていたでしょう。

民家の方には本当に感謝しています。

1人でないということは精神的に大変助かりました。

同時に、企業も地域との交流が重要だとつくづく感じました。

 

【執筆】株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第6話)

264号 2024/7/13

7.13水害の体験談 見附市内の工場に勤務されていた安達さん(その2)

 

※7月13日(本日)で、7.13水害(新潟・福島豪雨)からも20年をむかえます。

 本文章は、7.13水害の体験談として、7.13水害から5年後の平成21年に

 地域の方々にヒアリングし、信濃川大河津資料館にて紹介したものを、

 読みやすく調整したものです。

 

「家に上がりなさい!」と声を掛けてくれたのは民家の方でした。

無理に工場に戻ろうとしていたら今の自分はいないでしょう。

民家の方へのお礼にと畳上げを手伝うなどして被害を最小限にしようとしました。

水勢は衰えることなく暫く避難させていただくことに。

その際にお茶をいただいたり、おにぎりをいただいたり、

電話をお借りしたりと、本当にお世話になりました。

そして、このとき1人でなかったことは精神的に大変助けられました。

 

道路を流れる水の勢いが弱まったのは22:00頃だったと思います。

これまでの間に、何回か会社や自宅に連絡を試みたのですが全く繋がりませんでした。

そこで、会社に向かおうとしたのですが真っ暗の中で浸水深が深く身の危険を感じたため、

まずは高台に向かい公民館へ避難しようと決めました。

 

避難させてもらった民家から公民館までは歩いて20分程度なのですが、

このときは60分程度かかりました。

やっとの思いで公民館へたどり着くと既にたくさんの避難者がいました。

無料の公衆電話に列ができ、私も自分の安否を家族へ伝えるべく家へ電話しました。

ベル音が鳴り、やっと繋がったと思ったのですが誰も出ません。

このとき家族も避難していたのでした。

 

翌日6:00頃目覚め、自分の車を取りに向かいました。

救命ボートがあちこちで動いている様子が見える中、

泥水をかき分けながら車にたどり着き、キーを回すとエンジンがかかりました。

シートはグシャグシャで泥をかぶっていたのですが、助かったと思いました。

ところが500mほど走らせるとエンジンがストップし、それきり車は動かなくなりました。

結局、車は諦め、工場に向かおうとしたのですが、

関係者以外立ち入れない地域となっていて、もっとも浸水しているため先へ進めず、

工場に向かうことも諦めました。

 

この頃、やっと家族と連絡を取ることができました。

家族にしてみれば、工場にもいない、連絡も取れないということで、

相当に心配したらしいです。

 

浸水が引いた数日後に工場に行くことができたのですが、

そこには目をそむけたくなる光景が広がっていました。

(その3へつづく・明日配信)

 

【執筆】株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第5話)

263号 2024/7/12

7.13水害の体験談 見附市内の工場に勤務されていた安達さん(その1)

 

※7月13日で、7.13水害(新潟・福島豪雨)からも20年をむかえます。

 本文章は、7.13水害の体験談として、7.13水害から5年後の平成21年に

 地域の方々にヒアリングし、信濃川大河津資料館にて紹介したものを、

 読みやすく調整したものです。

 

お昼ご飯を食べている最中、

刈谷田川の水位が上がったため水門が閉められました。

これにより排水ができず工場の敷地に水が溜まり、操業停止となりました。

そのうちに上流から濁水が流れてきて駐車場が浸水。

車が流される危険性があったため、

工場より下流の方にある高台に車を移動させました。

水門閉鎖による湛水は過去に幾度かあったため、

「いつものことだ」と言い聞かせるように心を落ち着かせました。

 

工場に戻ると浸水深は膝下くらいまでになり、

さらに水かさが増す気配であったので、

再度車を移動させるため高台へ向かいました。

車の移動を終え会社に戻ろうとしたのですが、膝上まで浸水し、

流れが速くなったため会社に戻れなくなりました。

 

そのうちに上流から車や大木が流されてきて、

とても歩ける状態ではなくなってしまいました。

それでも何とか戻ろうとしたときでした。

路肩の側溝らしき深みに足を取られ危うく流されそうになりました。

 

会社に戻ることは諦め、民家の庭に避難しました。

ふと周りを見ると、窓ガラスがバリバリと割れて、

家の中へ水が入っていくのが見えました。

中に人がいるのではと思い、助けに行こうとしたのですが、

自分の身を守るだけで精一杯。

また、車のハザードランプがあちこちで点滅しては消えていく様子が見えました。

浸水で電気系統がショートしたのでしょうか。

 

そうこうしているうちに目の前の道路が濁流渦巻く川と化していきました。

「もっと水位が増えたら助からないかもしれない」

最悪の事態が頭をよぎったときでした・・・。

(その2へつづく・明日配信)

 

【執筆】株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第4話)

262号 2024/7/11

平成16年(2004年)新潟県中越地震による土砂災害[被害状況]

-忘れられない10月23日:全村避難指示-

 

2004年10月23日午後5時56分頃、中越地方を中心にM6.8の地震により、

土砂災害は225件発生し、この土砂災害により人的被害5名(死者4名、負傷者1名)、

家屋損壊数87件(全壊18件、半壊27件、一部損壊48件)であった(国土交通省調べ)。

 

特に、芋川流域内では、斜面崩壊が842箇所や地すべりが124箇所で発生し、

堆積した土砂が河道を埋めた河道閉塞(天然ダム、土砂ダム、堰止め湖ともいう)

が52箇所発生した。

 

このうち、規模の大きな河道閉塞は、芋川本川に形成された5箇所

(寺野、南平、楢木、東竹沢、十二平)であり、

中でも東竹沢地区と寺野地区の河道閉塞は

大規模な地すべりによるもので閉塞高30mを超えた。

 

当時の山古志村では、多数の崩壊や地すべりが河道閉塞に加えて、

道路の寸断などにより地域全体に甚大な被害が発生し、

10月25日避難指示が発令され、全村避難となった。

 

【執筆】 国土交通省北陸地方整備局湯沢砂防事務所 事業対策官 石田哲也(第1話)

261号 2024/7/10

フィールドワークは楽しいけれど…

 

活動に参加するとき、いつもの私のままでは

心がちょっとだけ押しつぶされてしまうことがあります。

そんな時に備えてあえて鈍感に振舞うのです。

男性優位な状況を目の当たりにしても動じず、

セクハラ発言に笑ってツッコミを入れられる余裕が持てるように。

 

昭和らしさに対する嫌悪感は、私の周りの数少ない女子学生の間では

ある程度共感できるトピックなのですが、

だからといってこうしたい、こう変えていきたいなどという

議論にはあまり発展させられません。

なぜなら自分たちでもどうしたいのか良く分かりませんし、

言ったところで取り合ってもらえるのか不安だからです。

このままじゃ良くないよねとは思いつつも、やり過ごしてしまっています。

 

私たちは「それすごく男尊女卑じゃないですか?」といって

場の空気を凍らせるほどのガッツは持ち合わせていないし、

「その発言・行動は不快です」だなんて目の前の偉いおじ(い)さんに

言えてしまうほど向こう見ずではないのです。

それに人と人が関わる以上起こってくる問題はセクハラだけではないし、

そんなことよりも取り組むべき課題があるのもわかっているつもりです。

 

ですが集落へ参画し、村おこし・復興を考えるためには

このもやもやに蓋をしなければならないのでしょうか?

 

また、震災復興に「携わった」地域の方々、

研究者の方々として挙げられる名前の多くが男性ですが、

そのことに関しても省みられることなく、

中越20年プロジェクトは進んでいくのでしょう。

被災に、復興に男性も女性も無いのに、

それでいいんだろうかと思ってしまう自分がいます。

 

PS.

この文章がメルマガで配信されてしまうことにまあまあ緊張していて、

「やっぱり出すのやめたいです」と言ってしまいたいくらいですが、

事務局の諸橋さんが「これこそ配信しようよ」とノリノリなのでもう諦めましたwww

 

【執筆】大阪大学人間科学部人間科学科4年 共生行動論研究室 中村早希(第4話)

260号 2024/7/9

羽賀友信さん かく語りき「第二話 避難所ローラー作戦」

 

中越地震の当時、100を超える避難所ができたんですけど、

電話すると「外国人はいない」って言われる。

どうしてかというと、慣れてない人は東南アジアの人が

ここで生活していてもわからない。

僕らが見れば、例えばフィリピン系の人だってぱっとわかるんです。

そんな状況じゃ駄目なんで、

全避難所にローラーをかけないといけないと思ったんです。

 

ローラーをかけても、ただ人に会って話するんじゃなくて、

やっぱり信頼構築をいかに早くするかということが大事。

ボランティアが交代しても、相談したことがきちっと引き継がれて

返答できるようなシートを国際緊急援助隊の連中に作ってもらいました。

 

それから外国人がどこに何人いるかという記録だけじゃ駄目なんですね。

体育館であれば、どのあたりにいるかが書いてないと行ってもわかんない。

 

それから、2段階の巡回ノートを作ったんですね。

どんな病気を持っていて、どんな医療を受けているか、

薬はどうしたらいいかといった情報は、外部に出したらまずいんで、

個人のファイルにしたんです。

オープンにしても困らないものと個人が特定されるものと

2段階に分けて記録しました。

今実際それが全国のベースになっています。

 

【執筆】長岡市国際交流センター長 羽賀友信(第2話)

 新潟県中越大震災20年プロジェクト事務局(中村早希・諸橋和行)

259号 2024/7/8

震災がきっかけのイラストマップ

 

今でも依頼をもらうと描いているイラストマップ。

中越大震災のあと最初に描いたマップはもちろん自分が暮らす竹田集落。

次に竹田がある中山地域全体のもの、そしてお隣木沢集落。

中山のマップは中山の集落センターに、

木沢のマップは朝霧の宿やまぼうし(旧木沢小学校)にそれぞれあります。

その後、栃尾半蔵金、南区白根、与板町、川口地域全体などつながっていきました。

 

そしてある日、十日町市の方から

「あなたのイラストマップがいい」と依頼を受けました。

当時ボランティアで木沢集落に来た際にイラストマップを見たとのこと。

十日町市下条東下組の6集落、今もホームページで見る事ができ嬉しく思います。

 

こんなつながりの中で もちろん大勢の人にも出会ってきました。

なので会いたくなって突然行ってみたり、名物を買ったり食べたり、、

ということでイラストの仕事としてはトータルでトントンか赤字。

 

それでも出会った皆さんの笑顔が嬉しくて「まぁいいか」と思ってしまいます。

このような経験が出来たのも中越大震災があったからなのです。

 

【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第11話)

258号 2024/7/7

中越から能登へ ④

-「仮設住宅間の住み替え制限」の緩和で2次避難・みなし仮設住宅からのふるさと回帰を-

 

新潟県中越地震で全村避難した山古志の被災者は、

村を孤立化させた道路整備と住まいの再建を経て3年後に山古志に戻ってきた。

車で1時間以内という近傍であり、元々通勤していた長岡市に若い世帯が居を移したが、

多くの人が山古志に戻った。

 

災害救助法では、応急仮設住宅間の住み替えを原則禁止しているが、

能登の人口過疎化と加速的な高齢化の進捗を緩和するためにも、被災地外に出た

みなし仮設住宅や公営住宅の例外措置による入居被災者に対する特例として、

法が規定している震災後2年を経過した場合や、

被災元自治体内の応急仮設住宅の空住戸が生じた場合には、

その仮設住宅への“住み替え”を許容する特別措置を認め、

復興の拠点となる仮設住宅の柔軟な運用を講じることが重要である。

 

それは、避難所や応急仮設住宅の開設期間は、

復旧等の進捗状況により延長される法的根拠となっている、

「特定非常災害の被害者の権利利益の保全等を図る特別措置法」の主旨にかなう、

「遠隔地のみなし仮設住宅やから被災地近傍の仮設住宅への転居」を可能とする、

“被災者の復興に取り組む権利”でもあろう。

その引っ越しや帰郷の交通費にも支援を工夫すべきであろう。

 

【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第16話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

257号 2024/7/6

中越地震と私(その8)学校再開

  

文部科学省による校舎の耐震審査を終え、

校舎設備の完全復旧には至らないものの、学校再開の目途が立った。

翌週11月8日から再開する旨、各避難所への掲示物や各戸への家庭訪問で伝えた。

 

安全な通学路が限られ、登下校中の余震も十分に考えられることから、

毎日教職員が町内ごとに引率して登下校をした。

22日からは危険ポイントごとに教職員が立哨することに変更し、冬季間も継続した。

 

学校再開前は、教職員の姿を見ていても、

家や避難所に残してきた我が子のことがやはり気になっていた。

学校生活に不便さは残っていても、

子供と家庭・地域双方にとって学校が再開する意義は大きい。

 

備えあれば憂いなしというが、逆に、憂いをもつ者は絶えず不安になる。

地震後、一人で自宅の二階に上がれなくなった子や

夜トイレに行けなくなった子などがでてきていた。

 

学校では学校再開後すぐに避難訓練を行い、

こうすれば大丈夫なんだよ、よくできたねと伝えた。

また、学校での安全な過ごし方について知らせ、

あなたがどこにいるか先生は分かっているよと安心させた。

また、不安や悩みについての聞き取りを全員に行った。

 

新聞には、頑張ろう、負けるななどの力強い言葉もあったが、

小千谷小学校の児童玄関と職員玄関には、

子供たちがほっとするメッセージを掲げたいと思い、

「みんなにあえてよかったね」「あかるくすすもう谷小の子ども」とした。

 

【執筆】前見附市立見附小学校長 前日本安全教育学会理事 松井謙太(第8話)

256号 2024/7/5

和太鼓奏者になるまで(その1)

 

このタイトル、原稿間違えてないかな? と思うかもしれません。

大丈夫です、あってます。初めまして。和太鼓奏者の坂牧颯人と申します。

 

中越では唯一のプロの和太鼓奏者として、県内各地で太鼓の演奏、

個人やグループに向けての指導、楽曲制作、学校での講義や授業などを行っております。

他にもジャズバンド、DJ、ベリーダンス、アフリカンドラムなど

様々なジャンルとの異文化交流を行っております。

 

出身は旧山古志村の種苧原地区。和太鼓を初めて今年で18年目になります。

 

高校卒業後、太鼓芸能集団鼓童の研修所に入所し、

太鼓を中心に日本の伝統芸能を学びましたが、

研修所での稽古中に体を痛めてしまい、一年の留年の末退所。

約二年間の研修生活を経て、地元の山古志に帰ってきました。

その後は色々あって現在和太鼓奏者として活動しております。

 

中越地震から今年で20年。

中越地震に被災しなければ、今の僕は「和太鼓奏者坂牧颯人」ではなかった事でしょう。

間違いなく。

 

今回いただいたこの機会。

当時7歳の子供の視点から見た全村避難ではないもう一つの避難生活と、

和太鼓奏者になるまでを振り返っていこうと思います。

しばしお付き合いください。

 

【執筆】和太鼓奏者 坂牧颯人(第1話)

255号 2024/7/4

地域復興支援員のこと(その9)

 

財団が解散するということで、やりたいことがひとつありました。

それは、担当させていただいていた広報誌で地域復興支援員を特集すること、

私たちの想いを地域に伝えること。

それを、10.23、私たちの始まりの日に届けるということです。

 

広報誌に、歴代支援員が撮りためた地域の写真を最大限使うという秘密の挑戦は、

長岡センターの仲間と各サテライトの協力のもと3年間全12号で達成していました。

最終号のミッションももちろん無事コンプリートです。

 

取り留めもなかったのですが、振り返ると私の地域復興支援員活動は、

先輩方が取り組んできた活動の再編集だったのではないかという気がしています。

新しいことは何もしておらず、先輩方の軌跡をたどっていたのではないかと。

そして、地域の魅力は手の届く場所にあると、

違う視点で同じものを見ていたことが嬉しくもありました。

また地域復興支援員という立場で地域の皆さんと過ごした時間は、

学びの連続で、何にも代え難いものでした。

 

私は今、県のスポーツ協会で、県内スポーツ団体の活動を支える仕事をしています。

目指すところは同じでツールがスポーツに変わっただけ。

対話は地域の方とのそれと同じように、

伴走者としてどうすべきか日々試行錯誤の連続です。

今でも気持ちは地域復興支援員で、

きっとこれからも変わらないのかもしれないなと思います。

 

【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構 地域復興支援員 臼井菜乃美(第9話)

254号 2024/7/3

山古志村支援チームの活動 山古志村役場長岡支所開設へ(その5)

 

発災10日目の11月1日、

支援チームは長岡支所開設や避難所支援など3方面に分かれて本格的に活動開始。

私は役場機能移転に必要な重要書類等の搬出準備のため、

役場職員と共に山古志役場へ向かった。

 

朝、長岡高校グランドから自衛隊の大型ヘリで竹沢小学校グラウンドへ飛ぶ。

眼下に広がる被災直後の長岡市南部から山古志にかけての光景を

皆がそれぞれの思いで見入っていた。

 

小学校から役場までの道路は無数の地割れで大きく傷んでいたが、

軽トラならなんとか通れそう。

役場庁舎は全体が北側に多少傾き、

裏手の駐車場は大きく波打ってアスファルトがめくれあがっていた。

庁舎内は机や事務機器が散乱し、足の踏み場も無い。

書庫はスチール書架が倒れて段ボール箱が積み重なり、

ドアも開かない状態だった。

 

必要な書類の仕分けと搬出ルートを確保し、

お昼には役場前の駐車場で自衛隊の戦闘食を戴いた。

パックご飯とレトルトの八宝菜だったかな。

その日はまさに秋晴れ。

住民の居なくなった山古志は静寂と鳥の声に包まれていた。

 

空を見上げていると、地震のあったことなど忘れてしまうような不思議な感覚になった。

一服していると、一匹の黒犬が近寄ってきた。

避難から取り残されたのだろう。

保健所が用意したペットフードをやったが見向きもしない。

試しに「戦闘食」をやってみたら旨そうにたいらげて去っていった。

「たくましいぞ山古志犬、頑張れよ。」と見送った。

 

【執筆】元新潟県県民生活・環境部 震災復興支援課長 丸山由明(第8話)

253号 2024/7/2

被災者のパワーを引き出す復旧・復興!-市長としての心がけ(9)

 

 -理髪店と畑-

 

コミュニティごとの入居により、被災者同士の助け合いが可能になるように配慮したとしても

仮設住宅での生活が長期化してくるとどうしても疲れが出てくる。

集会所でのお茶のみは大きな助けになっていた。

また、仮設住宅内で営業していた床屋さんは、被災者のたまり場として機能していた。

 

実は、仮設住宅内に床屋を併設することは、厚生労働省は許可しなかった。

あくまで住宅だから店舗の併設はまかりならないという見解であった。

しかし、長岡市としては熟考したうえで黙認することとした。

被災者が寄り合い元気になる場としての機能が大切だと考えたからであった。

厚生労働省から厳しい指導が来たときは戦う覚悟であったが、最後まで指導は来なかった。

 

また、山古志の皆さんから、「畑仕事をしたい。しないと体がなまってしまう。」

という要望をいただいた。

長岡ニュータウンにはまだ少し空き地があったので、

所長に相談したところ空き地を畑として快く提供していただいた。

 

畑としての整備が完了してオープンセレモニーを実施しようとしたら、

大勢の被災者の皆さんは、余計なセレモニーを横目で見ながら、

何とどんどん畑の方へ行ってしまった。

長島忠美元村長(長岡市復興管理官)が、私に申し訳なさそうな顔をしたが、

私は、畑の提供がそんなにも嬉しいことだったということを目の当たりにして、

むしろ嬉しかったことを覚えている。

 

【執筆】前長岡市長/(一社)地方行政リーダーシップ研究会代表理事 森民夫(第9話)

252号 2024/7/1

中越大震災20年メルマガ 252号:中越大震災の体験-外国籍市民の声-

(その9 中国の方・長岡技科大留学生)

 

地震の時、私は友達と一緒に料理をつくっていました。

突然地震がありました。私の建物は激しく揺れました。

私は地震に遭ったことがないですから、そのとき全然心配しませんでした。

ですから電気が消えて、私たちは外へ行きました。

そのとき私は少し心配しました。

 

私の家のガスを消していませんでした。

私はもう一度部屋に帰りました。

ガスの栓を閉めて外に行きました。

 

その後、私は友達と一緒に学校の避難場所に住んでいました。 

翌日私の家族は中国から電話をかけました。

私は「強い地震ですが、大丈夫です」といいました。

 

地震の時はちょうど週末でしたから、学校の人は多くなかった。

私は寒くてだんだん恐くなってきました。

翌日学校からいろいろなお知らせがありました。

私はだんだん安心しました。

地震の後学校で毎日いろいろな食べ物がありましたから、

私たちは何も心配しな くてもよかった。

 

毎日いろいろな人から伝えてくれました。

私は「いろいろお世話になりました」といいたいです。

私は日本語が苦手ですから、感激の言い方はあまりわからないです。

私は「どうもありがとうございました」といいます。

皆様に心から感謝いたします。

 

【執筆】「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第12話)

  協力:国際交流センター「地球広場」

251号 2024/6/30

中越大震災の体験-外国籍市民の声-(その8 中国の方)

 

10月23日中越大地震は私にとって忘れがたいものとなりました。

その時、私はちょうどウオロクで買い物をしているところでした。

突然天地が 大きく揺れ、棚の物が次々と下に落ちました。

息子が私に傍にいたので、まず 息子を守らなければと思いました。

 

しばらくして揺れを感じなくなり、ああ、まだ生きていると気がつき、

そこで息子を抱きかかえて外へ走りました。

大人が叫び、子どもが泣くのが聞こえるばかりで、辺りはめちゃくちゃでした。

動悸が止まらず、ようやく自分の車にたどりつき、

息子を車に乗せ、急いで家に向かいました。

この間、余震が次々と起こりました。

車は、まるで船に乗っているようでした。

 

やっとのことで家に帰り着き、中に入ると、

食器棚、たんす、テレビなどすべてが倒れていて、

ひどくめちゃくちゃになっていました。

 

地震は恐ろしかっ たですが、このことから日本人の冷静さと世の中の温かい真心

(優太君救出の感動的な出来事)を感じました。

天災は恐ろしいですが、ここにはよい対策があり、対応ができるので、

安心して過ごすことができるといえるでしょう。

 

【執筆】「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第11話)

  協力:国際交流センター「地球広場」