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201号~250号


250号 2024/6/29

中越地震で注目された“エコノミークラス症候群”の教訓を生かしたい

 

中越地震で注目されたのが“エコノミークラス症候群”です。

私も取材を通して初めて聞きました。

 

小千谷市では当時、最大で約3万人の人たちが避難をし、

多くの人たちが車中泊をしていました。

車の中など狭い場所で長時間同じ姿勢を撮り続けると足に血のかたまり、

「血栓」ができます。

最悪の場合は死に至ることもあります。

全国各地で地震が起きるたびにこの「エコノミークラス症候群」に

注意することを呼び掛けています。

 

エコノミークラス症候群について長年研究している

新潟大学大学院の榛沢和彦特任教授を取材したことがありますが、

こうした災害現場でどう症状がでないようにするべきかを取材したところ、

避難所の整備の仕方によって「エコノミークラス症候群」は防げるというのです。

ではどう整備するのか!キーワードは「TKG48」でした。

 

トイレ、キッチン、ベッドを48時間以内に設置し、

被災者が安心して滞在できる環境を確保することだといいます。

国内での整備は難しいとも言われていますが、

中越地震の教訓を今後の災害現場で生かすべく報じ続けることが大事だと思っています。


 【執筆】BSN新潟放送 メディア本部報道制作局 報道部長 酒田暁子(第6話)

249号 2024/6/28

自助・近助(近所)それから共助(その2) 

 

各家庭から持ち寄った懐中電灯をぶら下げ、

掘立小屋風テントの明かりを確保、みんなホッとしました。

子供たちや老人のためにと駐車場の持ち主の小児科医院から

待合室の長椅子や段ボールが提供されテントは更に快適に、

しかし隙間だらけのテントで寒さをしのぐには石油ストーブ1台では無理、

そこで秘策が登場しました。

 

殿町に近いわが町内には閉店したスナックのママさんがいらっしゃって、

閉店時に自宅に持ち帰ったハウスボトルがあるので、

体の内側から暖を取ろう‼ということになり、

クリスタルグラスならぬ紙コップで酒盛りが始まりました。

各家から漬物などのおつまみを持ち寄って飲みました。

 

体はそれなりに温まりましたが、

気が張っていたせいか全然酔った感じがありませんでした。

その晩は満天の星空だったことを記憶しています。

 

 【執筆】中越市民防災安全士会 小林俊晴(第2話)

248号 2024/6/27

高校1年生だった私の体験(8)10月27日続き

 

地震が来た瞬間は、家族も別々に被災したらしい。

父と5年生の末の弟、祖父と祖母の4人は実家一階の茶の間にいたそうだ。

前後や天地もわからなくなる程の大きな揺れで、

特に祖母はパニックになってしまい逃げることを忘れてしまったそうだ。

祖母を父が担いで、網戸を蹴破って外に出た。

元々目を患っていた祖母はストレスのせいか一時的に目が見えなくなってしまった。

 

わたしの母と、中学1年生の弟は小千谷で買い物をしていたそうだ。

スーパーの中で揺れに見舞われ、腰が抜けた母を弟がどうにか手伝って避難させたらしい。

長岡で避難していたとき、この弟がテレビ画面にでかでかとピースサインで映っていたのを見た。

「バカじゃないの」と友達と2人で見て笑った。

 

その後、被災した武道窪の実家を見に行った。

築60年程の汲み取り式のトイレを使っていた古い家だったので、

直して住めるような状態ではないことはすぐわかった。

2階の自室にあったはずのテレビが、何故か屋外に放りだされていた。

お風呂場のタイルは全て剥がれ落ちていた。

これはだめだなと、絶望を通り越して笑いが出た。

まだ子供で、これから先の生活に対して責任感を負っていなかったのもあったのだろう。

妙な高揚感があり火事場のナントカのような精神状態だったのだろうと思う。

 

実家はぺちゃんこにつぶれていた訳ではなかったので、

ヘルメットをかぶって、自宅1階のトイレで用を足そうと試みたこともあった。

2度目ときに余震がきて、走って飛び出しそれ以降は怖くなってやめた。

 

 【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第8話)

247号 2024/6/26

高校1年生だった私の体験(7)10月27日

 

震災から5日目、ようやく幼馴染のお父さんが迎えに来てくれて、

いままで通ったことが無いような道を通って帰った。

川口に近づくにつれて、どんどん景色が酷いものになっていった。

山や畑、家や道が崩れて壊されて、電柱が傾いていた。

これでは自分の家はどうなっているのかと思った。

 

川口に入って、武道窪の実家よりかなり手前で車を降ろされた。

「あなたの一家と親戚はここへ避難しているから」と言われた。

そこは私の叔父一家の車庫兼工場だった。

遠くから母が手を振っているのが見えた。

地震から5日ぶりにようやく親元に戻ることができた。

 

地震の日の電話で母と話していた通り、川口の生活環境はずっと悪かった。

武道窪の実家が壊れてしまったので、

叔父家族が仕事で使っている小屋に私たちの家族は身を寄せ、

しばらく二家族で暮らしていた。

 

電気が止まっていたので発電機を使って必要な電気を賄っていた。

もちろん水道も下水道も使えないのでトイレも使えない。

近くの茂みにある側溝の周囲をブルーシートで覆って、

そこを簡易的な流水トイレとして使った。

ポケットティッシュを持って側溝をまたいで用を足していた。

(明日へ続く)

 

 【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第8話)

246号 2024/6/25

地球の裏側で(その5)

 

中越地震が米国子会社での生産に残した教訓は

「大きな災害を想定したサプライチェーンの見直しの必要性」でした。

日本での地震のみならず、生産の多くを占めるようになった

東南アジアも地震では同様のリスクを有しています。

更に自然災害のみならず、各種紛争の事も心配です。

 

2005年に帰国してから、その様な災害や混乱があっても

生産を続けられる様にするためのBCP(生産継続プログラム)を検討し、

グループ内での代替生産の可能性を広げることや、

製品仕様面から専用部品を減らし部品の標準化を進めることを行いました。

 

また、キーパーツや専用部品をグローバル的にどこに在庫させるかなど、

いざという時を想定し、それでも生産ができる様なしくみを検討しまた。

実際には発注してもらう製品の仕様がますます品種が多くなるなど

部品メーカーの志だけでは進展しない事も多く見られました。

 

地球の裏側での車販売計画、生産計画とつながっている長岡での生産・調達計画を

如何に無駄を生じないシステムに変えて行くかという壮大なテーマ。 

やりがいもありましたが、力不足を痛感した中越地震対応でした。


 【執筆】中越市民防災安全士会 会長 岸和義(第5話)

245号 2024/6/24

中越復興市民会議と中越防災安全推進機構(第1回) 

 

中越機構は、このタイミングで組織ミッションの再定義を行います。

理事会での議論、長岡市、小千谷市、復興基金事務局などへのヒヤリング結果も踏まえて、

伊藤滋理事長名で「伊藤ドクトリン」を公表し、

多くの機会を捉えて情報発信することに腐心しました。

 

また、ミッションを公表したと同時に、被災現場で住民と向き合い、

地域の「声」を丁寧に聴きながら支援活動を進めていた

中越復興市民会議(以下「市民会議」)との合流を模索します。

 

市民会議は、地震発災当初からボランティアで被災地支援を続けていた団体です。

彼らの活動原資は青年会議所からの寄付金で、

その名の通り、市民を巻き込んでの支援活動でした。

 

市民会議の活動は、多くの被災地域で大学等の調査研究機関、

青年会議所等の民間団体、各種ボランティア団体と連携して展開されていました。

連携した大学の研究者は、教え子たちを被災地域に送り込んできます。

彼らは、現地で多くを学び、成果をあげていきました。

 

  【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第11話)

 (公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)

244号 2024/6/23

羽賀友信さん かく語りき「第一話 全国から支援者を集める」

 

地震が起きた瞬間は、国際イベントを二つやっていて、外国人が何人もいたんですよ。

職員は13人いたんですけど、出張や家が全壊して出れないというので、

3名しか来れなかったんです。

外国人被災者と日本人支援者しかいないんですね。

そして日本人支援者も被災者なんですよ。

だから外部からの支援者が必要でした。

 

このとき、地元側の支援受け入れの窓口を1本化して僕がそれを担った。

全国への支援の呼びかけも1本化し、ここには信頼できる責任者を配置して、

僕とホットラインで結んだんですね。

このホットライン以外はいっさい外部支援者を受け入れませんでした。

「緊急時の三角ネット」という名称で全国から支援者を集めたんです。

 

この支援体制を作るときに、ネットワークがないので、JICAと話をして、

JICAから国際緊急援助隊にボランティア休暇を与えてもらい、

彼らがボランティアとして入ってこられるようにしました。

 

それから、ボランティアが泊まるところ確保する必要があったので、

地元の若い人のネットワークでアパートを確保しました。

うち(国際交流センター)が仲介するからできるんですね。

一番困るのはボランティアの宿泊なんですよ。

そういう付き合いは今でも続いています。

 

  【執筆】長岡市国際交流センター長 羽賀友信(第1話)

 新潟県中越大震災20年プロジェクト事務局(中村早希・諸橋和行)

243号 2024/6/22

プロローグ すべてのはじまり -羽賀友信さんから話を聞く-

 

中越地震は、外国人支援が歴史上初めて組織的に行われた場であったと言えます。

その体制をわずか一日で考案し、実現させたのが

羽賀友信さん(現 長岡市国際交流センター長)です。

なぜそのような組織的支援体制の構築が可能になったのか。

それは震災の三年前までさかのぼります。

 

もともと国際協力の分野で難民問題など、人道支援の専門家であった羽賀さんは、

親の介護のために地元長岡に帰ってきました。

当時の合併前の長岡市には、在留外国人が2500人もいたのですが、

彼らの支援のための相談窓口は存在していませんでした。

 

羽賀さんは行政の手続きや病院の付き添いといった支援を

その都度ボランティアで行っていましたが、その対応には限界がありました。

彼らについての情報を一元化するとともに、

何が課題でどのような解決策が必要かを議論し、

対応する場をつくるため、国際交流センターの立ち上げに至ります。

そこには日本語教育、啓発事業、相談業務の機能を持たせ、

研修制度の実習生や外国人花嫁、留学生への支援を行う制度を構築しました。

中越地震が起こったのはこのような制度が整った直後のことでした。

 

この国際交流センターの存在がなければ、

外国人被災者へのきめ細やかな支援は実現することはなく、

そしてその経験が今後に伝えられることもなかったでしょう。

 

われわれ中越20年プロジェクトのメンバーは、羽賀さんにインタビューを行い、

当時の経験や思いを伺いました。

次回からは「羽賀友信さんかく語りき」として、

羽賀さんの語りをできるだけありのままに残す形で配信していきます。


  【執筆】新潟県中越大震災20年プロジェクト事務局(中村早希・諸橋和行)

242号 2024/6/21

中越地震、その時何が(その5続)

 

体育館に入ると、異様な臭気が漂う。

風呂に入っていない人々の体臭に交じって排泄物の匂いが充満しているのだ。

体育館のトイレを覗くと、汚物が便器やその周辺で山盛り状態となっていて

足の踏み場もなく、どうにもならない状態である。

断水でこうなってしまったのだが、排泄は時と場所を選ばない。

我慢はできないので、どんなに汚い場所であろうと

覚悟を決めて排泄行為に及ぶことになる。

 

神戸という大都会、人口密集地で発生したため、

避難した人の数も地方とは比べ物にならない。

体育館の裏や、校内の物陰という物陰は、全て排泄物で溢れている。

食べて、出して、寝る。人間の営みは、どんな災害が起ころうとも変わりようがない。

トイレの大切さというものを初めて知った災害取材となった。

 

中越地震では、トイレの問題は阪神淡路ほど大きくクローズアップされなかった。

仮設トイレの使用をためらい、水分補給を我慢して、

エコノミークラス症候群を引き起こす原因になったともいわれるが、

災害は地域の事情によって大きく左右されることが分かる。

 

都会はマンションが密集しているので大問題となるが、

新潟のように土地が広く、戸建て住宅が多い地域であれば、

水道が止まったとしても、いざとなれば庭に穴を掘ってトイレにすればよい。

山登りするときは基本的には物陰で野グソだ。

ちょっとした目隠しがあれば大丈夫。何とでもなる。

臨機応変に生き抜く術を身につけたい。

 

  【執筆】株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第6話)

 (元株式会社TeNYサービス 取締役)

241号 2024/6/20

中越地震、その時何が(その5)

 

神戸市内に取材に出ると、そこには現実とは思えない風景が目に飛び込んできた。

巨大なビルが倒れ、道を挟んだ反対側のビルに寄りかかっている。

ビルの真ん中の階がなぜか潰れていて、窓ガラスがことごとく砕け散り、

下の歩道にはガラスや壁のコンクリートが散乱している。

生田神社が見る影もなく倒壊し、屋根だけが見えている。

高架となっている高速道路の継ぎ目が壊れ、宙ぶらりんになっている。

極めつけは、阪神淡路の震災風景で必ず出てくる高速道路の高架の横倒し。

凄まじさに言葉を失う。

 

避難所に向かった。学校の体育館は避難者でごった返している。

避難生活への不満、度重なる取材へのストレスが影響していることもあるのだろうか、

取材班は関西弁でどやしつけられることもしばしば。

とはいってもこちらも現場を取材しなければ仕事にならない。

頭を下げながらインタビューのお願いに回ることになる。

(明日へ続く)


  【執筆】株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第5話)

 (元株式会社TeNYサービス 取締役)

240号 2024/6/19

物流の停止と災害時の食

 

小千谷市の自宅近くのコンビニは棚から商品が落ち、

停電のため中は真っ暗、レジも使えない状態でした。

翌日、商品を店前に並べて電卓で計算しながら販売していましたが、

間もなく在庫は空になりました。

 

また、駅近くのスーパーの外壁は歩道に大きく倒壊し、

中に入ることは危険とされました。

自動販売機も宅配も利用できず、

被災地では一切の食料や生活物資の入手は困難になりました。

 

市内の道路では液状化の影響はありましたが、通行できていました。

しかし、市内に通じる国道や高速道路の被害は大きく、

トラックや貨車での輸送ができないことを知りました。

道路の応急復旧でも3日程度ですむものではなく、

また被災地の外に疎開することもできずに備蓄していたものと

救援物資でしのぐほかありませんでした。

 

中越地震は10月23日に発生しましたが、その年の冬は大雪でした。

もし、地震と大雪の複合災害となれば、道路の損壊場所も雪で埋まり、

除雪も大幅に遅れたと思います。

この複合災害は考えたくありませんでしたが、これからは備える必要があります。


  【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第8話)

239号 2024/6/18

長岡市災害ボランティアセンターの運営 ~ある子どものつぶやき~

 

12月の初旬、災害ボラセンの企画班のメンバーから、

山古志の避難所にて子どもたちを対象にお楽しみ会を開催したいとの相談があり、

私も二つ返事でOKした。

このイベントは、「山古志わくわくまつり」と銘打って、

企画段階から綿密に打ち合わせを行い、開催の日まであと数日のところまできた。

 

ある時、企画班のメンバーから相談を受けた。

「本間さん、今日、山古志の避難所で、“わくわくまつり”開催のお知らせを

行ったところ、一人の小学生が私のそばに来て、小さい声で話しかけてきました」

『わくわくまつりには、テレビカメラは来るの。

テレビカメラが来るのであれば、私、わくわくまつりには出ない‥‥‥』と。

この言葉を聞いた瞬間、私は、何も言い出せなかった。

 

山古志は震災以降、常にマスコミのスポットに当たってきた。

しかし、この小学生にとって見たら、まさに非日常の世界の連続である。

さらには自分たちが日々世間の目に触れ続けることにより、

心が休まる時がなかったと思われる。

小学生にこのような心情を抱かせたのは、まぎれもなく我々大人の責任である。

 

普段、私たちは、何気なく、被災者中心という言葉を使っているが、

一人の小学生のつぶやきから、被災者本位の本質は何か。

改めて考えさせられた。

 

  【執筆】長岡市社会福祉協議会  本間和也(第8話)

238号 2024/6/17

中越大震災の体験-外国籍市民の声-(その7 アメリカの留学生)

「長岡の新しいフェニックスの炎(4)」

 

すべては地震とともに始まり、

そして日本中の人々の暖かく迅速な対応によって終わりを迎えました。

ほんの何日かの間で、まちはほぼ元の状態に戻りました。

 

私と友達にとっては、これは "ギブアンドリターン" のまたとない経験であり、

私たちは日本の人々からたくさんの愛をもらい、

怖がっている子供や助けの必要なお年寄りに食べ物や水をあげるという

大変やりがいのある経験をしました。

 

私がこのことについてどれだけ詳しく説明しても皆さんは分からないかもしれませんが、

それはどうやってフェニックスが灰から若者になり、

そして強くなって火の鳥となったことを知ることで理解することができると思います。

長岡市民がひとつになって働くのを見ていると、

長岡のシンボルがなぜフェニックスなのか、理由が見えてきます。

(おわり)

 

  【執筆】「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第10話)

  協力:国際交流センター「地球広場」

237号 2024/6/16

中越大震災の体験-外国籍市民の声-(その7 アメリカの留学生)

「長岡の新しいフェニックスの炎(3)」

 

ある日、友人の一人と先生が、支援ボランティアの学生組織があることを教えてくれ、

それは良い機会だと思い、私たちはある朝準備をして、

たくさんの若い男女が長岡の様々な地域に配置されようとしているところへ行きました。

すべてのことがこれほどまでに組織化された方法で進行していることに大変驚きました。

 

私は市役所の倉庫に配置され、そこで最終的に長岡市の避難所に

受け渡されることになる食糧の積み下ろしの仕事をしていました。

避難所で仕事をしていると時間が早く過ぎ、食糧の積み下ろしを迅速に行えば、

人々がより早く食べ物を受け取ることができることに気が付きました。

他の人の力になっているという気持ちが、ボランティアの人々に長時間、

迅速に仕事を成し遂げるためのエネルギーを与えてくれました。

 

友人と私にとって、倉庫で話される日本語を理解することは非常に難しいことでしたが、

サインやジェスチャーを使うことで、

どうにか連携して働くための意思の疎通を図ることができました。

 

さらに時間が経つと、日本全国から仕事を休んで長岡の人々を助けに

来てくれている人々がいるということを知りました。

その地点で、ボランティアが多すぎるように感じていましたし、

仕事がだんだんと減っていくことにも気が付いていました。

特に私たちは日本語が話せませんでしたので、もう私たちの助けは必要がないと思い、

すべてのグループ(学生ボランティア)が学校の寮に戻りました。

(明日へつづく)


  【執筆】「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第9話)

  協力:国際交流センター「地球広場」

236号 2024/6/15

中越地震から半年間が復興の正念場だった(その4)

 -新潟県「中越大震災復興基金」の設立-

 

阪神・淡路大震災から9年9か月後に発生した二度目の最大震度7の中越地震に、

内閣府を中核とする新たな災害対応体制を講じていた国も、最初の本格対応で、

直後に非常災害対策本部を起ち上げ、全面的にバックアップする体制を講じました。

 

一方、新潟県知事と被災自治体の市町村長は、

阪神・淡路大震災と同様に中越地震復旧・復興特別措置法の制定を要請しましたが、

実現はされませんでした。

 

しかし、阪神・淡路大震災の復興でも大きな役割を担った「復興基金」が

2005年3月1日に設置されました。全国で4例目の基金でしたが、

特別法なら使用枠が決められてしまう“ひも付きの補助金”に対して、

被災地で“自由に活用できる復興基金”は、

中越の被災地域社会に寄り添った復興を実現するカギとなり、

有効かつ効果的に中越地域の特徴的な復興の推進を支えたのです。

(その5へつづく・明日配信)

 

  【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第11話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

235号 2024/6/14

中越大震災の体験-外国籍市民の声-(その7 アメリカの留学生)

「長岡の新しいフェニックスの炎(1)」

 

ある日、授業のあと、技大で他の学生たちとスポーツをしてくつろいでいると、

体育館の天井が揺れ、そしてライトも揺れ始めました。

色々な考えが私の頭の中を過ぎり、それが地震であると分かりました。

しかし、その時はまだ、この地震がどれほど強いものになるか想像もしていませんでした。

 

体育館のライトが消え、人々はみな混乱していました。

私は少し待ちましたが、音が大変大きかったため、屋外へと急ぎました。

しかし外は暗く、みんな走って逃げましたが、沢山の人が出口をふさいでいました。

 

外に出ると、私たちは、車やビルや床がどれだけ激しく揺れているのかを見ることができました。

どんなに強い力であっても、その瞬間に起きていることを

コントロールすることはできそうにありませんでした。

アドレナリンが放出され、それが地震のほんの始まりに過ぎないということも、

この時はまだ分かりませんでした。

(明日へつづく)

 

  【執筆】「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第7話)

  協力:国際交流センター「地球広場」

234号 2024/6/13

震災がきっかけ、ボルナツとの関係

 

中越大震災から何年か過ぎ、地域に元気が戻る気配を感じた冬のある日。

長岡技術科学大学のボランティアサークル「ボルナツ」から

活動場所を探しているとの電話。

 

とりあえず「道の駅越後川口あぐりの里」の「ミニミニ火ぼたる祭」をお手伝い。

そして「明日も何かありませんか」というので、

東川口の「よってげてぇふれあい市」を紹介することに。

このイベントは毎月第3日曜日に開催されるので

「毎月ボルナツの予定に入れとけばいいんだよ」なんて言ってみたら

彼らは本当に毎月やって来るようになりました。

 

そしてその夏、川口まつりに来ていたボルナツメンバーから

「買った花火を砂川さんの家の前でしてもいいですか」という電話が。

花火が終わると「焼きそばあるのでホットプレート借りていいですか」

さらには「明日の活動場所が川口から近いので泊まってもいいですか」もちろんOK。

 

焼きそばを食べながら話す中、ついにあの一言「オレ支援員じゃないんだよ」

みんなの「えーっ!」の声は今でも忘れられません。

 

PS ボルナツが復活したとのこと。活躍が楽しみです。


  【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第10話)

233号 2024/6/12

仮設住宅での生活(第6回)

 

ギリギリ降雪前には仮設住宅が完成し、入居が始まると、

ようやく個人や家族のプライバシーが守られる生活に移ることとなる。

地域内には小学校のグラウンドをはじめとして、2~3か所の仮設住宅が設置された。

 

幸い我が家は被害が少なかったので、自宅に戻り、

町内会長としての業務ができるようになった。

しかし、地震被害に追い打ちをかけるように、平成16年の豪雪が仮設住宅を襲う。

 

仮設住宅は長屋のように建てられ、

それが何棟か2間~3間の間隔を置いて設置されるため、

屋根からおろした雪のやり場に困った。

通路に除雪機も入れず、排雪するには建物の端までスノーダンプで運搬しなければならない。

排雪が間に合わない仮設住宅の玄関前には、雪の山ができる家もあった。

(つづく)


  【執筆】小千谷市にぎわい交流課 地域づくり支援員 石曽根 徹(第6話)

 元小千谷市地域復興支援員(小千谷市産業開発センター所属)

232号 2024/6/11

今考えて思うこと(第7話)

 

2015年から2017年の3年間、

当時群馬大学教授であった片田敏孝先生、金井昌信先生が主宰された

防災教育推進連絡協議会に、全国で先進的な防災教育に取り組んでいる学校、教師が集められた。

そのような会に恥ずかしながら私も参加させて頂いた。

 

最終年度に成果報告会があり、私とともに能登町立小木中学校の大句わか子先生が発表された。

その時、大句先生が「やがて能登にも東日本大震災のような津波が来る。

その時のために着実に防災教育を推進したい」とおっしゃった。

その時は想像もしなかったが、そのわずか6年後に能登半島地震が起こり、能登町も大きな被害を受けた。

私はすぐに多くの情報媒体を使い、可能な限り小木中学校の状況を調べたが、知ることができなかった。

少なくとも6年前まで津波に関する防災教育を熱心にされていた事は確かで、

それが継続されていたのか、継続されていたのなら今回の地震で活かされたのかどうか今も分からない。

 

全国のどこで、いつ、どのような大災害が起こるのか分からない昨今、

命を繋ぐ防災教育は防災のソフト面としてその価値は年々高まっている。

一方で、社会の関心の高まりは残念ながら感じられない。

学校を含めた社会に向けた防災教育の在り方を、

一度リセットして問い直す必要があるのかもしれない。

 

  【執筆】長岡工業高等専門学校 非常勤講師 五十嵐一浩(第7話)

 (前三条市立第四中学校 校長)

231号 2024/6/10

中越大震災の体験-外国籍市民の声-(その6 中国の方)

「地震がもたらした影響」

 

外国人は、地震の認識が曖昧です。

去年の中越大地震では、どのような事項を避けるべきか分からず、

私は非常に慌てました。

 

地震を経験して、地震の恐ろしさを知りました。

余震が一週間続き、仕事と生活に大きな支障がありました。

毎日精神的に緊張し、戸惑いや不安な気持ちで、

少しでも揺れを感じるとすぐに外に逃げました。

 

生活にも大きく影響しました。

例えば、ガスが止まり、水の供給が不足し、料理が作れないなどです。

地震で役に立つ物としては、ラジオを準備しておくべきです。

常に地震の情報を知ることができます。

その他には、避難所での供給不足や寒さを避けるためには、

懐中電灯、毛布、衣類などを準備しておくべきです。

 

今後注意すべき事項

 ①地震が来たら、直ちに外へ逃げる

 ②重い物は高い所に置いてはならない

 ③高い建物がある所から離れる(例えば、電柱など)

 ④過度の緊張で、入院したりすることのないようリラックスを心がける

 ⑤政府が提供する情報によく留意する

 

  【執筆】「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第6話)

  協力:国際交流センター「地球広場」

230号 2024/6/9

中越大震災の体験-外国籍市民の声-(その5 中国の方)

「地震の瞬間」

 

10月23日土曜日、私はちょうど家でテレビを見ていて、

友人たちはみな 街へ出かけていました。

家には、私と年下の後輩が残っていました。

ちょうどその瞬間、家全体が強烈に揺れました。

 

私はまずホールのテーブルの下にもぐりこみました。

手でテーブルの足をしっかりとつかみ、二人で手をしっかりとつなぎました。

信じがたい事実「地震」にどうしたらいいのか、心臓がドキドキました。

 

近所の人たちが家の中から私たち二人に外へ出るように言いました。

日本人の友人に会って、少し安心しましたが、地震はまだ続いていて、

私は小国の避難所で1週間過ごしました。

だいたい他の人と同じで、食事も睡眠もきちんととれませんでした。

あの瞬間は永遠に忘れることができません。

 

その後、日本人が地震に負けず、

自分の家や庭をだんだんと復旧しているのを見て本当に感動しました。

最後、帰国する前、長岡市の人たちに言いたい。がんばって!!!


  【執筆】「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第5話)

  協力:国際交流センター「地球広場」

229号 2024/6/8

青葉台3丁目自主防災会の歩み 話題(4) 中越大地震初日23日 避難所開設対応

 

避難所の体育館の内部は落下物とホコリでまず大掃除から始めた。

屋外で待っている間に、大まかな各町内別レイアウトを決めていたので

割合とスムーズに持ち寄った発電機や投光器で灯りを付け、通路をつくり、

町内会の決めた場所にシート等を敷き座ってもらう事ができた。

 

他の町内から持ち込んだ発電機は購入したままで燃料が全く入っていないのもあった。

我々の持ち込んだ予備燃料で一晩、何とか対応する事が出来た。

避難所へ入るまでの待ち時間が長かった為、自宅や自家用車内避難も多くあった。

 

保管してあった救護物資の断熱シートと毛布も災害弱者優先配布とした。

後から来ると思われる救援物資も災害弱者から順番にする事を

避難者へ事前に説明して理解を得る事が出来た。

 

トイレはプールからバケツで汲んできた水を使い、最低限の汚物を流す事にした。

当時、学校のトイレは全て和式で、お年寄りや体の不自由の方は困っていた。

青葉台中学の渡辺校長が、中学校にあるかも、ということで

中学校に確認に行ったが確保できなかった。

 

体育館内避難者状況は、床だけでなくステージや用具入れ室等も使って混みあう中、

余震のたびに悲鳴が上がって朝を待つことになった。

我々の自主防災委員全員が黄色のユニフォームを普段から着用していたが、

地震での混乱の中、黄色が良く目立ち、

仲間同士の連絡はもとより会場全体の指揮・統率に効果を発揮した。

 

  【執筆】青葉台3丁目自主防災会運営委員長(中越地震当時) 畔上純一郎(第4話)

228号 2024/6/7

被災現場の人と人(その2)

 

あの日の深夜、月明かりの空は、冷えてきていた。

1階が倒壊した衣料品店フクヤは、

崩れた店先から出せるだけの毛布などを持出し、次から次へ。

この店舗は、1階売場に店員と客が閉じ込められ、

自力で脱出したばかりであった。

 

食料品店安田屋も、店内外に散乱した飲料品等を

集めるだけ集め、次々に配っていた。

さらに、菓子店舗龍昇堂から

翌日に備えて準備した法事用式菓子が提供されていった。

 

繰り返す余震、目の前の倒壊家屋、傾いた電柱やブロック塀、

そして、垂れ下がった電線。

多くが夕食もとることなく外に飛び出し、

自宅に戻れず肩を寄せ合う町民にとって、

「お互い様」では言い尽くせないこうした地域の助け合いは、

余震に大きな声が出たその夜、大きな力、支えとなっていた。

 

職員が集まる場に、地域の状況が少しずつ入って来た。

川口町各地区と連絡が取れない、その状況が分からない。

隣接する町に繋がる国道が両方向で不通となり、

通行中であった車両も動けないでいる。

 

誰も眠れない夜が続くこととなった。


  【執筆】中越市民防災安全士会 会員 吉原 昌隆(第4話)

227号 2024/6/6

中越大震災の体験-外国籍市民の声-(その4 カナダの方)

 

2004年10月23日、それはいつもと変わりのない土曜の夜でした。

私は彼女や友人たちと食事をする為に

長岡駅の東口をいつものように歩いていました。

しかし、その平穏な夜は数分にして変わってしまったのです。

 

突然、地面が激しく揺れ、セメントの壁は壊れ落ち、

マンホールが隆起し、一瞬にして長岡は地震の廃墟と化したのです。

私は走って友人との待ち合わせ場所へ行きました。

私の友人を含め、近所の人たちが公園の側にある神社に避難していました。

 

その夜、私は彼女の家族と避難所になっていた体育館へ避難をしました。

ヒーターがすでに用意され、毛布などが支給されました。

沢山の余震が続きましたが、

どれも最初の揺れの恐ろしさに勝るものではありませんでした。

館内にいる全ての人たちがお互いを励まし、

協力し合いながら眠れない一夜を過ごしました。

翌朝から10日間ほど、私は荒れ果てた彼女の家の片付け作業の手伝いをしました。

 

今、改めてこの震災を思い起こして考えることは、

日本の人々がこのような大きな震災を、

よくここまで乗り越えられたなという事です。

 

震災直後には、道路が封鎖されて避難できない人々の救出作業の為に

ヘリコプターが飛びまわり、食事の配給も始まりました。

人々が1つとなることにより、私にもいつしか、

恐怖心から安心感が生まれていました。

アメリカで起きたハリケーン「カトリーナ」による被害に対する

アメリカ政府の対応を見ていると、

日本の災害時のサポート体制がどれだけ整っているのかに気付かされます。

 

私は、この悪夢のような夜を一生忘れることはないでしょう。

被災された方々の一日も早いご復興をお祈りしています。

 


  【執筆】「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第4話)

  協力:国際交流センター「地球広場」

226号 2024/6/5

中越大震災の体験-外国籍市民の声-(その3 インドネシアの方)

「初めて地震に遭った」

 

先週の土曜日はとても恐かったです。

晩御飯の時、突然建物は激しく揺れました。

グラスと皿がたくさん割れました。

テレビとレンジが倒れました。

そして「みんな外に出てください」と聞こえました。

 

その時電気が消えていました。

すぐ子どもと一緒に家を出ました。

ああ・・・ぴっくりしました。

みんな日本人は外で布団とコートを持ってきていました。

みんな日本人は「大丈夫ですか」と聞きました。

 

二回目の地震が起きたとき、みんな一緒に野球場にいました。

その場所でリーダーが説明してくれました。

「今地震がおきた・・・・・・・・・」 

 

三回目の地震がおきたとき、子どもが泣きました。

あとで主人はアパートへいって、

布団とコートと食べ物と飲み物をもってきました。

その日は車で寝ました。とても恐かったし寒かったです。

 

日曜日から水曜日までインドネシア人はみんな

三ツ郷屋のアパートで一緒に住んでいました。

その時は電話をかけるのが難しかったです。

 

地震のときとても恐かったですが、テレビを見た時はもっと恐くなってきました。

そしてスーパーでハラルフード (注:イスラム教徒用に処理された食品)はなかった。

私たちはイスラムだからもっと困りました。

 

恐かったから木曜日に新潟へ行きました。

新潟は安全な場所だから心配しなくてもいいでしょう。

新潟で私たちはたくさんハラルフードを買いました。

そして長岡へ持ってきました。

 

私は家族と新潟でリフレッシュしました。たくさん遊びました。

日本の地震が起きたときとても恐かったし大変でした。

その時インドネシアに帰りたかったです。


  【執筆】「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第3話)

  協力:国際交流センター「地球広場」

225号 2024/6/4

第8話 地震から水害へ

 

中越地震の後、誰から聞いたかも噓か真かも定かではないが

「こんげな地震が150年前にもあったがんだと」と聞かされた。

確かに川口町の十八番と名のついた裏山の斜面は大きな地滑りの痕跡を示している。

 

東川口町会に参画する3年前の平成23年に新潟・福島豪雨災害が発生している。

東川口の一部では内水氾濫による床上浸水が発生し、

魚野川増水に伴う避難指示が発令された。

町会の庶務となった後も平成29年に内水氾濫がたてつづけに発生し、

魚野川では堤防の一部決壊も発生している。

 

地域の防災意識の向上に150年に一度の地震災害をテーマとするか、

頻発する大雨による水害をテーマにするか誰が考えても答えは後者であろう。

水害をテーマに検討会や訓練を突き進めた。

 

最初は手探りではあったが中越防災安全推進機構や長岡技術科学大学など

多くのかつ強力な支援を得て現在に至り、

縁あってこの中越大震災20年メルマガに投稿している。

 

これ以上書き進めると本来の中越大震災から話が大きく外れて事になるので、

今回はここで筆を置くことにするが、町会としての防災活動の目的は

「自ら考えてその時々にあった最善の行動をする」という

防災の原理原則を醸成することであり、対象とする災害を選ぶものではない。

(おわり)

 

【執筆】東川口町会 庶務 上村光一(第11話)

224号 2024/6/3

優しさの連鎖「恩送り」

 

このメールマガジンの執筆者のひとりでもある長岡市社会福祉協議会の

本間和也氏から「恩送り」という素敵な言葉を教えていただきました。

 

恩をくださった方に直接お返しする「恩返し」はどちらかというと「一対一」。

対して「恩送り」は受けた恩を別の人に送ること。

恩送りを受け取った方が同じように恩送りをしたら…。

受けた優しさや助け、感謝の気持ちが次々とつながっていきます。

 

私たちは中越地震の際、

全国の方々から多くの支援や熱い励ましをいただきました。

たくさんのボランティアの方々からの見返りやお返しを求めない

献身的な支えや援助にどれだけ支えられたでしょう。

 

その時の恩を返すとそこで終わってしまいますが、

恩を送ると優しさが広がっていきます。

気をつけなければならないのは、人の役に立ちたい気持ちが先張りしないこと。

相手が負担に思ったとたん「恩着せがましい」になってしまいます。

 

【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構川口サテライト 地域復興支援員 佐々木ゆみ子(第8話)

223号 2024/6/2

中越大震災の体験-外国籍市民の声-(その2 中国の方)

 

地震から一年が過ぎましたが、今思い起こしても、依然として記憶に新しく、

特に地震の少ない国の出身である私たち中国人にとっては、

なおのこと深く記憶に刻まれました。

 

私は2005年7月に来日しました。

3ヶ月あまりが過ぎ、一生懸命勉強してだんだんと慣れてきた矢先に、

日本でもまれに見る地震を経験しました。

 

これまで経験したことがなかったために、

その時は走る車中にいて、地震だとはまったく分かりませんでした。

車が壊れたのだと思い、会社に引き返してはじめて知りました。

この時、大きな余震がひっきりなしに襲い、落ち着いて立っていられず、

ただただ不安で恐ろしかったです。

 

会社の向かいの一家が一緒に避難するのを見るにつけ、

なおのこと親戚や故郷が恋しくなりました。

すべてが早く過ぎ去ってほしい、

もう誰の心も傷つけたりがっかりさせないでほしいと心の中でずっと祈りました。

 

余震が小さくなった頃、社長は私たちを中国人が住む会館に送ってくれました。

その時、私たちは会うなり分かれて久しい身内のように抱き合って号泣しました。

会館には住みたくありませんでした。

責任者は私たちを避難所に連れて行ってくれ、避難所で不安な11日間をすごしました。

日本の各方面から配慮と支援を得て、食べ物や、日用品や住居もすべてそろっていて、

日本人の素養と自ら進んでする資質を感じました。

 

私たちのような異国にいる外国人にとっては、

多くの助けをもらうと同時に多くのことを学びました。

もうこのような地震が起きないことを願っています。

一度でも忘れることができません。

 

【執筆】「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第2話)

  協力:国際交流センター「地球広場」

222号 2024/6/1

中越大震災の体験-外国籍市民の声-(その1 中国の方)

 

中国で生まれ育ち、これまで地震を経験したことがなく、

地震の恐ろしさと その後の結果も経験したことはありませんでした。

思えば、時間が過ぎるのは 早いもので、地震からすでに1年になりますが、

今思い起こすと地震の情景が ありありと目に浮かびます。

 

10月23日この一日は、永遠に忘れることがないでしょう。

午後5時59分に始まりました。その時は小さな揺れでしかなく、

みんな数分揺れるだけの軽い地震だと思い、気にしていませんでした。

日本では小さな地震はよくあるからです。

これから先に恐ろしい地震があるなんで思いもよりませんでした。

 

マグニチュード6.8の地震は、地震を経験したことがない私たちにとって、

非常に恐ろしいものでした。立とうとしても立っていられませんでした。

 

あの時、私たち中国人9人は、社長、専務、そのほかの日本人もみな一緒にいました。

みんなが一緒だったので、それほど怖くはありませんでした。

おそらく人が多いので心強かったのでしょう。

夜、私たち6人の中国人は寮にいましたが、眠ろうにも眠れず、

一緒に座り、夜中なのにじっとしていられませんでした。

 

眠りについたころにまた地震がきて、その夜はほとんど眠れませんでした。

洋服もきちんと着て、地震が来たら私たちの何人かはすぐ逃げました。

地震が繰り返し起こるたびに、私たちはこんなふうに何回か往復して走りました。

日本人も同じようでした。

 

今、その時の情景を思い浮かべると、恐ろしくもあり、面白くもあります。

幸いだったのは、私たちが地震の辛い日々を安全にすごせたということです。

地震の暗い影が遠くへいってくれることを願っています。

 

【執筆】「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第1話)

  協力:国際交流センター「地球広場」

221号 2024/5/31

マンションの再現(続)

 

マンションの一室に残されている被災物の収集にあたっては、

床に升目を設置してそれぞれに番付をして、

どの場所になにが置いてあったのかを記録に取りました。

 

考古学の発掘現場にならったやり方でしたが、ある程度スケッチも残し、

なるべく展示において収集した時点での再現ができるように心がけました。

傾いているマンションの6階から降ろしてくれる協力者も探さなければいけません。

フンだらけの資料も洗浄し、消毒なども行わなければいけません。

 

展示場所はそなえ館内に場所が取れなかったこともあり、

そなえ館のピロティ―に小屋を建てて、

その中でマンションの再現を行うことにしました。

予算も限られていたし、開館までの時間がなかったので、

内装業に関わる私の家族や木工職人の友人などを頼り、

何とか完成にこぎつけました。

 

資料の整理に当たっては県立歴史博物館の学芸員からアドバイスをいただき、

資料のクリーニングには小千谷復興支援室の協力により

地域の方たちの参加・協力も得ました。とても助かりました。

今この資料は、地震後の再現としてそなえ館のシアター出口正面で見学ができます。

この経験は大変を通り越して、もはや楽しかった思い出となっています。

 

このことは「震災資料の活用事例 震災資料展示についての取り組み」として、

長岡造形大学研究紀要にまとめています。

https://nagaoka-id.repo.nii.ac.jp/records/140

 

【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第11話)

 (元中越メモリアル回廊担当職員)

220号 2024/5/30

マンションの再現

 

そなえ館整備時の思い出です。

展示パネル等もほぼ決まり、展示スペースも固まった段階だったと思います。

「ミュージアムと名乗るならば、実物資料にもこだわるべき!」

整備検討委員会での意見でした。

 

設計変更する時間もない中で、対応がむずかしい問題でした。

なにより震災から6年が経過して、災害当時の事を伝える場所や資料などは

もう地域で目にすることができなくなるほどの時間が経過していました。

もはや当時のことを伝える資料を改めて集めるのは難しい状況でした。

 

ところが地震で壊れ再建できないままに放置されたマンションが

残っていることが分かりました。

傾き放置された建物は地域の問題となっていました。

その中の一部屋は、6年間放置されたままで、家具や食器が散乱しており、

確かに地震当時の様子が残っていることも知りました。

 

ただ、割れた窓から侵入した鳩が住処としていて、

そのフンが床一面覆っている状態でした。

住民は趣味で食器類を集められていたのでしょう。

一般家庭よりずいぶんと多くの食器があり、

それらが床一面に散乱しまさに足の踏み場もない状況でした。

 

ですが、2004年の10月23日以降、人の手があまり加えられなかったこの部屋が

地域では最後の震災当時を伝える場だと考えました。

この部屋の台所をそのまま展示に使うにはどうするか考えました。

(つづく:明日配信)

 

【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第10話)

 (元中越メモリアル回廊担当職員)

219号 2024/5/29

中越から能登へ ③ -被災者がふれあえる向う三軒両隣型仮設住宅配置の工夫-

 

中越地震では仮設住宅団地のレイアウトで、

コミュニティの形成に効果的な工夫にも取り組まれた。

そもそもは、積雪地域で通路の除雪作業を軽減するために、

従来の各住戸前面に通路を並列配置するサイトプランに対して、

一般市街地と同じく通路を挟んで玄関が向かい合う向う

三軒両隣(対面配置)型のサイトプランが工夫された。

除雪が必要な通路が半減した。

 

ところが、思わぬ効用があった。

全戸南面できず、東西向きの配置になるが、

通路からの居室のプライバシーは高く、

住戸タイプの配列をずらして開口部の対面化にも配慮できる。

通路が半減することで住戸増も可能にし、

上下水道の配管も半減し、工期短縮や工事費軽減にもなる。

さらに、郵便などの配達ルート距離も半減して、配達の便を向上させた。

何よりも評価したいのは、通路が居住者には「向う三軒両隣」の出会いの路地となり、

通路ごとの近隣関係が緊密化したことである。

 

また、仮設住宅の車いす対応が、

通路の奥を住戸の床面の高さに合わせて屋外デッキを設置し、

斜路一本で複数住戸のデッキを繋ぐことによって、

複数の福祉対応住戸を効率的にバリアフリー化できる。

そして、このデッキは路地の屋外交流空間としてみんなで利活用でき、

障害のある被災者の孤立化を防ぎ、近隣でのつながりを強化し、

一人一人の復興へのモチベーションを高める様々な活動空間ともなりえる。

 

2005年の春、小千谷市の対面配置型仮設住宅では、

この通路にござ敷き、花見の宴が被災者の皆さんで開かれていた。

 

【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第15話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

218号 2024/5/28

除雪ボランティアとのつながり

 

中越地震がきっかけでできたボランティア同窓会。

その中のメンバーが活動場所を探していたときに

元竹田集落担当の復興支援員の紹介で竹田集落の除雪に来てくれることに。

 

この年は2011年、東日本大震災もありましたが、

「東日本はまだボランティアがどうこうできる状況ではない」

との判断で大雪の竹田に来ることになりました。

 

除雪をしたら地元の飲食店でお昼、

午後の除雪が終わるとえちご川口温泉に入って家に戻って一杯。

最終日は午前中除雪をして道の駅越後川口あぐりの里でお土産を買って帰る。

助かるだけでなく楽しい時間となりました。

 

コロナ禍前までは毎年来てくれましたが、

その後はメンバーも定年になり「もう行くことはない」との電話がありました。

それでもたまに電話をもらうと嬉しくなって晩酌が少し多くなったりします。

メンバーの中には埼玉の川口の人(故郷なのでほぼどこに住んでるかわかる)もいるので

「こっちから行ってみようかな」などと思ったりします。

 

【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第9話)

217号 2024/5/27

現場にでる大切さ(第8回)

 

活動費0円でスタートした雪害検討委員会でしたが、

その後、学会が工面してくれた10万円の予算を使い、

速報の内容をA4用紙1枚にギュッと凝縮したチラシを作ることができ、

4万部のチラシを市町村の広報誌に挟んで住民に届けることができました。

 

道路、建物、雪崩、斜面、春先の雪解け、除雪…などの

多様な注意を詰め込んだ挿絵も写真もない文字ばかりのそっけないチラシ。

それでも多くの方が読んでくださったようで、

直接、住民から電話や郵便、電子メールでの問合せを頂くたび、

Web掲載した文書を印刷して郵送しました。

それでも、本当にメッセージを届けたい住民に、

効果的なタイミングで情報を届けることはとても難しい、それが現実でした。

 

ふと、机上でパソコンに向かったままで

被災地の雪害軽減を論じていても何の役にも立たないのではないか、

自分の足で地域を回り、地域の人と対話しながら、

冬に向けてどんな不安があるのかを聞き、

そして出来るアドバイスをするべきなのではないか、

そう考えるに至ったのです。

(つづく)

 

【執筆】長岡技術科学大学 教授 上村靖司(第8話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 副実行委員長)

216号 2024/5/26

地域復興支援員のこと(その8)

 

さて、大好きになった山古志を離れてから、

転属先の長岡地域復興支援センターで何をしていたかと言うと、

年4回の山の暮らしの魅力を発信する広報誌作成と家庭料理教室の企画を行っていました。

自分に合ったアウトプットの手段を得て、

後半3年間は存分に山の暮らしの魅力を発信できたと思っています。

 

特に先輩の奔走により土台ができていた、

「人を通して山の暮らしの魅力を発信する」というコンセプトの広報誌の特集記事は、

作成していた私たちも毎回新たな発見があるよい企画だったなと感じます。

 

(公財)山の暮らし再生機構は2021年3月31日に解散が決まり、

個々の支援員の活動は今後に繋がる形に、財団の活動はまとめをする方向で動き出します。

 

ちなみに、私たちが行っていた家庭料理教室は、

他の企画の名称だった「越後長岡くらしのクラス」の名前を団体名にもらい、

継続することになりました。

実は、今も支援員仲間と地域の仲間の5人グループで、

楽しみながら年数回の料理教室を開催しています。

 

【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構 地域復興支援員 臼井菜乃美(第8話)

215号 2024/5/25

山古志村支援チームの活動 山古志村役場長岡支所開設へ(その4)

 

実際、あの全村避難の状況で、

各避難所に張り付いていた役場職員は相当に疲弊していたようである。

避難所の再編後、村は市内某所に休養施設として住宅を借り上げて、

職員を順番に宿泊、休息させていた。

「場所は内緒です」と村長が言っていた。

 

長島村長はと言えば、自衛隊から借りたテントを振興局の裏手に張って寝泊りしていた。

一度中を見せてもらったら、枕元に缶ビールが一本供えてあった。

その頃、村長は永田町や霞が関に精力的に陳情・要望活動を続けていて、

そんなある日、帰りの新幹線で、見知らぬご婦人から

「大変ですね、頑張ってください。よかったら後で飲んでください。」

と言って頂いたものだそうだ。

 

その時、村長は「全員が山古志に戻れるまで、酒は断つことにしました。」

と私に話してくれた。

事実、仮設住宅が解消されるまでの3年間、酒は口にされなかったようである。

 

【執筆】元新潟県県民生活・環境部 震災復興支援課長 丸山由明(第7話)

214号 2024/5/24

山古志村支援チームの活動 山古志村役場長岡支所開設へ(その3)

 

発災6日目の10月28日、

役場長岡支所開設に向けた打ち合わせと必要な支援の聞き取りのため、

県の長岡地域振興局に間借りしていた山古志村災対本部を訪れた。

 

そこには長島村長や各課長を中心とした少数の職員が詰めていた。

彼らも村民と一緒に着のみ着のままヘリで避難してきたので、疲れの色は隠せない。

当時TVで見慣れた長島村長の青いジャンパーと長靴姿は印象的だった。

 

打ち合わせでは、当面の課題として避難所運営の効率化が挙げられた。

市内数か所の避難所にランダムに入所していた村民を、集落ごとに再編成して、

昔からの山古志自治システムを活用するという。

具体的には越後交通のバスと自衛隊のトラックで各避難所を一周し、

一挙に再編する計画が実行されるとのこと。

 

私も支所開設にあたり役場職員の確保も課題と考えていたので、

これもまたタイムリーであった。

(その4へ続く:明日配信)

 

【執筆】元新潟県県民生活・環境部 震災復興支援課長 丸山由明(第6話)

213号 2024/5/23

地震によって過疎が急激に早まった現実…

 

中山間地を襲った中越地震は旧山古志村のように全村避難を余儀なくされたり、

多くの人たちが慣れ親しんだ集落を離れて仮設住宅での生活を強いられたりしました。

復旧・復興が進んでも、“また大きな地震が起きるのでは”と

不安に思った人たちは集落に戻ることはありませんでした。

 

全国的に中山間地の過疎が深刻化していましたが、

中越地震がきっかけで中山間地の過疎は10年早まったともいわれています。

 

どうすれば過疎に歯止めをかけられるのか!

集落が復活するきっかけはないのか!

持続可能な集落のあり方とはいったいなんなのか!

 

そんなことを考えて過ごしてきましたが、

最近では旧山古志村では「デジタル村民」なるものが登場し話題となっています。

バーチャルの世界で山古志の魅力を知り、実際に訪れる人も出てきました。

最新の技術を使い、集落の魅了が発信される。

こうした新しい取り組みを追いかけると、

まだまだ集落の存続の道もあるのではという期待が膨らみます。

 

【執筆】BSN新潟放送 メディア本部報道制作局 報道部長 酒田暁子(第5話)

212号 2024/5/22

自助・近助(近所)それから共助(その1)

 

居間でテレビを見ている時でした。

子供のころ体験した新潟地震よりはるかに大きな揺れに驚き、

いつの間にか外に立っていました。

どうやって外に出たかはいまだに思い出せません。

 

近くの駐車場に近所の人たちが集まってきたころには

すっかり暗くなっていましたが、

誰も家に戻ろうとしませんでした。

 

とにかく寒さをしのぐため、

キャンプ用のアルミ伸縮ポールとブルーシートで屋根を作り、

風よけはご近所さんが提供してくれた布団袋を切って作りました。

 

テントの中には反射式石油ストーブを持ち込み、

夕食用に準備していた蓋が割れた土鍋を乗せ、

うどんを煮て紙コップに入れ、集まってきたご近所さんと一緒に食べました。

相次ぐ余震の恐怖に、一晩眠れないことを感じ、秘策をもって徹夜を覚悟しました。

 

【執筆】 中越市民防災安全士会 小林俊晴(第1話) 

211号 2024/5/21

震災から半年後の産官学リレーシンポジウム

 

新潟中越地震・大地復興推進会議が中心となり、

震災から半年の2005年4月22日(金)から24日(日)までの3日にわたり、

「新潟県中越大震災 震災から半年復興スタート宣言 産官学リレーシンポジウム」

が開催された。

 

初日はサンプラザ小千谷で、自治体やNPO、ボランティア団体からの現地報告、

そして日本都市計画学会、土木学会、日本建築学会、都市計画家協会、

そして阪神・淡路まちづくり支援機構による各種提言、

そして台湾921地震の被災地で復興に携わる新故郷文教基金会の

顔新珠理事長による特別報告が行われ、その後は交流会が設けられた。

 

二日目は長岡グランドホテルを会場として、

第一部は鼎談「中越大震災からの復興」防災・安全立県宣言、と銘打ち、

泉田県知事、森長岡市長、そしてその後設立される

中越防災安全推進機構の初代理事長となる伊藤滋東大名誉教授による鼎談、

その後は北陸建設弘済会による「山古志復興ビジョン」についての報告、

そして午後は渡辺千雅氏をコーディーネーターとし、

蓬平温泉「いずみや」の金内智子氏、小千谷市慈眼寺住職の船岡芳英氏、

そして山古志闘牛飼育組合の関克史氏による「市民の復興」をテーマとした

パネルディスカッションも行われた。

 

これらの議論や話題提供を踏まえ、最後には総括討論、共同宣言の発表が行われた。

最終日は現地視察を実施している。

 

実際に登壇したさまざまな人々、参加した多くの人々が一同に介し、

意見を交わし、復興をどのように推進していくか、について

熱のこもった議論の場が生まれることになった。

このシンポジウムは半年ごとにしばらく続くことになる。

 

【執筆】兵庫県立大学大学院 准教授 澤田雅浩(第7話)

 (長岡震災アーカイブセンターきおくみらい 館長)

210号 2024/5/20

中越地震と私(その7)

 

学校職員として、児童を守ること、そして学校を守るということは

言うまでもないことで、常に念頭にある。

しかし、災害時において、同僚職員を守るという感覚が、

自分たちには弱かったのかもしれない。

職員の個別の状況を勘案しつつ、学校再開に向けてどう総力を挙げていけばよいのか。

全く未知のことだった。

 

初期対応で走り続けていた小千谷小学校職員の心身の疲れは、ピークになっていた。

自宅の片付けなどを含めた肉体的な疲れだけでなく、明日の見通しさえ持ちにくい状況や、

情報が行き渡らず全体像が見えにくくなっていることからも、

疲れが増しているように感じた。

 

そこで、10月28日から次のようにした。

 

■軽重をつけて大胆に仕事を分担する。休む人は休む。名札で所在地や仕事を明示。チーム(学年部)を活かす。

■現状と今後の情報を一斉に共有できるよう、全員が会議室に集合する時間を決める。

■職員室前に情報コーナーを設置する。校区地図に通行可能場所などを書き込み共有する。

■個々の児童の情報をエクセルで一元管理し、誰もがアクセスできるようにする。

 

今考えれば、どれも当たり前のことばかりなのだが、

当初はそんなことさえ思いつかない程、

私たちの学校にとって中越地震は未曾有の出来事だった。

 

【執筆】前見附市立見附小学校長 前日本安全教育学会理事 松井謙太(第7話)

209号 2024/5/19

7.13水害の体験談 三条市内の消防団員(その3)

 

(14日の救助活動中は)上空を多くのヘリコプターが低空で飛び交い、

その音は非常に大きく、安否確認の声は家の中に響かないほどでした。

そのような折りに、家の中に子供が取り残されているとの情報が入りました。

一瞬、血の気が引きましたが幸い無事で何よりでした。

また、妊婦さんも救助しましたが、

無事元気な赤ちゃんが生まれることを願うばかりでした。

このような救助活動は14日いっぱい続きました。

15日に自宅へ戻ると非衛生的な泥水に長時間浸かっていたせいか、

足の皮膚が炎症をおこしていました。

 

本当に大変だったのは泥水が引いた後でした。

私は仕事上お付き合いのあるお客さんの家やボランティアとして

各地に後片付けに行きましたが、いずれも泥出し・ゴミ出しは先の見えない作業で、

畳をはぐって床板をはいでスコップで地道に泥をかき出すしかありません。

このときは仕事で使っている噴霧器が役立ちました。

泥を洗い流してくれましたからね。

このような泥出し・ゴミ出し作業は10日ほど続きました。

 

あの水害以来、大雨が降ると、

消防団はいち早く消防団の積載車を準備し、川を見回ります。

水害は2度とおきてほしくないですが、

水害を経験して防災への意識は高まりました。

何事も備えが大切であること、地域の方々の協力が災害防止、

災害軽減に一番大切であることを実感しています。

 

【執筆】株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第3話)

208号 2024/5/18

7.13水害の体験談 三条市内の消防団員(その2)

 

(13日に五十嵐川右岸での水防活動を終えて)

消防団の詰め所に戻ったのが18:00頃でした。

情報が錯綜し、道路は寸断され、夜は二次災害の危険もあることから、

思うように行動ができず悔しい思いをしながら詰め所で14日の朝を迎えました。

周囲が明るくなってきた頃、五十嵐川の様子を見に行きました。

堤防に立つと対岸の曲渕の堤防がなくなっていました。

 

私たちは常盤橋付近に救助に向かいましたが、

徐々に見えてくる一面の泥海に思わず目を疑いました。

最初は避難誘導を行い、続いて飲料水・食料を運搬する作業に入りました。

ゴムボートに物資を乗せて胸まで浸かる泥水をかき分け避難所を目指しました。

途中、「救援物資がほしい」との声を何回かお聞きしましたが、

心を鬼にするしかありませんでした。

避難所では着の身着のまま避難したであろう方々が大勢いました。

おそらく逃げることで精一杯だったと思います。

 

救援物資を運んだ帰りは被災者を救助しながら戻りました。

ボートが被災者でいっぱいになると、

被災者をおんぶして泥水をかき分けながら避難所を目指しました。

このとき声をかけた方々の半数は

「食料や飲料水があれば家の2階で生活する」と言われました。

災害時の盗難を心配されたのかもしれません。

(その3へつづく・明日配信)

 

【執筆】株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第2話)

207号 2024/5/17

7.13水害の体験談 三条市内の消防団員(その1)

 ※中越大震災から20年ということは、7.13水害(新潟・福島豪雨)からも20年…

 本文章は、7.13水害の体験談として、7.13水害から5年後の平成21年に

 地域の方々にヒアリングし、信濃川大河津資料館にて紹介したものを、

 読みやすく調整したものです。

 

12日の夜から降り続いた雨で13日の朝、

家の前の坂道は川のように水が流れていました。

6:00 頃、近所の川が溢れ、一部の家は浸水が始まったとの連絡が入り、

私は直ちに現地に向かい、他の団員14・5名と300個ほどの土のうを堤防上に積みました。

8:00頃には土のうを積み終え、近所の方々の炊き出しをいただいていました。

そのとき無線で、五十嵐川が危ないとの連絡が入りました。

 

私たちは西大崎に向かいました。

9:00頃に現地に着くと、五十嵐川は既に堤防天端から手が届きそうな位置まで

水位が上昇し、堤防の法面からは水が噴出していました。

私たちは急いで月の輪工法という水防活動に取り掛かりました。

人海戦術で行う土のう積では水の噴出を止められず、

近所の建設業者さんが重機で大型土のうを積んでくださって

何とか噴出をくい止めました。

 

朝からずっと水防活動を行っていたため、私たちは早めの昼食として、

用意していただいたパンと牛乳を食べているときでした。

今度は三竹で堤防から水が溢れ始めたとの連絡が入り、急いで現地に向かいました。

到着時、既に堤防から水が溢れていて土のう積みが行われていました。

私たちも先着の消防団に加わり手作業、手渡しで堤防に土のうを積んでいきました。

ふと対岸を見ると曲渕の堤防にも土嚢が積まれていました。

「何とか水位が下がってくれたらよいが・・・。」

嫌な不安を感じました。

(その2へつづく・明日配信)

 

【執筆】株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第1話)

206号 2024/5/16

中越大震災復興基金と中越防災安全推進機構(第4回)

 

法人改革以前の社団法人ですから、

今で言う一般社団法人としてスタートしたということになります。

手続き的には設立までに要する期間が約1カ月、

所轄庁もなく、事業目的の制限もない組織形態が選択されました。

 

中越機構の事案は内部理事会で承認され、

復興基金理事会での審議・承認があれば事業認定されることになりますから、

非常にスピーディーに、しかも自由度高く支援活動を展開することができました。

 

中越機構理事会のメンバーが3大学の学長、高専の校長、

防災研究センターの所長など、各構成機関の長ですから、

社会的な認知度・信頼度は非常に高いものがありました。

しかも、事業展開がスピーディーに展開できることも相まって、

実績は着々と積み上げられて行きました。

 

ところが、一部の民間事業者からは、社団法人の実施している事業すべて公

益性が高いとして、他者との競争もなく指名・実施されている。おかしいで

はないかといった声が上がりました。

行政はこうした住民の「声」には、ことのほか敏感です。

いつの間にか被災地住民から遠い存在になって行きました。

 

【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第10話)

 (公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)

205号 2024/5/16

住家の被害と災害時の食

 

食料備蓄は3日分が一般的でした。発災後72時間は救出救護を優先し、

4日目からは救援物資の搬入が始まるまでの3日分を備蓄しておくという考えです。

 

しかし、3日くらいなら食べなくとも何とかなる、

避難所に行けばいろいろももらえるという理由で、

備蓄が進まないという課題がありました。

しかし、備蓄するしないの前に重要なポイントがあると感じました。

 

住家が全壊・半壊では人命が助かっても、備蓄食料は被害を受け、

避難生活で活用できないことを目の当たりにしました。

小千谷市では住宅被害数10,899棟のうち、全壊622棟、大規模半壊370棟、

半壊2,386棟でしたが、これらの住民は、自宅に戻ることはできず、

被災生活は数ヶ月に及び、長期の避難生活での課題が大きいことが分かりました。

 

家の耐震性は、生命の危険だけでなく、在宅避難を不可能とし、

長期避難所生活を招いていました。

 

【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第7話)

204号 2024/5/14

高校1年生だった私の体験(6)10月26日

 

震災4日目、通行止めだった国道17号線のうち、

回り道をしながら長岡まで来る道が復旧したという知らせがあり、

幼馴染の父が迎えに来てくれることになった。

 

でも助けてもらった伯母さんは一人暮らしだったので、

私達が川口へ帰ってしまうとアパートで一人きりになる。

この非常時にそのまま一人でいることは良くないだろうということで、

支援が受けられる長岡工業高校の避難所に行くことにした。

 

市役所でもらった段ボールと阪之上小学校でもらった毛布を持って、

長岡工業高校の体育館に入った。

いただける食料がお弁当になっていて、

徐々に栄養バランスが良い食べ物になったように思う。

 

外では、神戸市から来たというパン屋さんがメロンパンを配っていて、

とてもおいしかった。

阪神大震災で被災してから、

自分も何か手助けができるかもと思ってここへ来たと話していた。

 

【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第6話)

203号 2024/5/13

地球の裏側で(その4)

 

長岡の本社工場の様子が分かるに従い、

「まずは日本の取引先の生産ライン優先」であり、

海外向けの部品、製品の輸出は後回しが必然であることを理解しました。

 

日本の主要顧客である自動車メーカー、二輪車メーカは

自社の生産ラインの稼働維持のために長岡の本社工場に従業員を派遣し、

生産、加工、更に設備復旧の手伝いまでして頂いているのです。

 

とりあえず、海外後回しの方針の中で、頼りにしたのは物流の変更でした。 

従来は横浜からサンフランシスコなどまで船で運び、

陸揚げ後は大陸を横断し、オハイオまで運んでいたのですが、

この一か月かかる船をメインにした物流を飛行機に切り替えることにより

約一か月物流リードタイムが短縮できるのです。

お金で時間を買う、と言う事です。

 

この様にして、回復し始めた長岡の生産計画に海外向けのものも組み入れてもらい、

飛行機でつなぐことにより最悪の事態を免れる事はできました。

 

地球の裏側からではありましたが、日本のモノづくりの災害時における修復力

(部品メーカの備えと自動車メーカ等大手メーカのサポート力)の

すごさを感じ取った次第です。

 

【執筆】中越市民防災安全士会 会長 岸和義(第4話)

202号 2024/5/12

木籠ふるさと会 ~山古志木籠集落~

 

「水没した集落」といえば、

芋川の可動閉塞によりできた天然ダムに水没した木籠集落のことを思い出すでしょう。

 

震災から間もなく、木籠集落では、

当時区長だった松井治二さん(故人)により「郷見庵」がつくられました。

全国から「被災地を応援したい!」と思いこの地を訪ねる人たちは、

集落住民の温かいおもてなしの心に触れて、逆に自分たちが元気をもらい、

次第に集落の応援団になっていきました。

 

会員は、1年を通して行われる集落行事へ参加したり、

神戸や東北、熊本、丹波市など全国各地の自然災害の被災地と交流したり、

郷見庵で来訪者をお迎えする側になるなど、

一人一人が自分にできる範囲で、役割をもって関わり続けています。

 

20年後の被災地はどうなったのかな?

最近忙しくて心がささくれだったかな?

と思ったら、ぜひ木籠集落にも足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

日本の原風景ともいわれる山古志の自然に囲まれた郷見庵で

「木籠ふるさと会」の皆さんが、いつでも、だれでも暖かく迎えてくれますよ。

 

【執筆】 松井治二さんに「おじょう」と呼んでもらえたうちの一人 山﨑麻里子(第3話)

201号 2024/5/11

青葉台3丁目自主防災会の歩み 話題(3) 中越大地震初日23日 町内避難対応

 

平成16年10月23日中越大地震が発生し大混乱の中、初の自主防災会の活動となった。

地震でインフラ(電気・水道・ガス)は停止した。

6月の避難訓練もあって、大地震を受け、

防災委員や住民が一時避難場所のながぐつ公園に集まっていた。

直ぐに自主防災委員が外観的な被災確認と同時に

避難者からもケガ人や家屋の大きな被害等が無いかを聞き取りを行い、

大きな人的、物的被害がない事が分かった。

 

余震が続くなか、避難者からは皆と一緒に過ごしたいと多くの声が上がり、

町内会として市の指定避難所の青葉台小学校に避難する事を町内として決定した。

この避難所へ避難する事を数名で町内全体にメガホンで連絡した。

同時に防災倉庫からリヤカーで投光器や発電機、ブルシート、ガソリン等

必要と思われる物資を避難所へ運搬した。

 

避難所の青葉台小学校には他の町内の人も併せ、

多くの人が避難していたが避難所は開いていなかった。

寒い夜空の下、待っている時間はいつもの数倍に感じた。

 

やっと市の職員が来て、体育館の被災状況を確認していたが、

耐震強度が分からないので直ぐの開設は出来ないとの返事で啞然としてしまった。

外気温が下がって行く中、集まってくる人は増えて来る。

落下物や傾き等外観上の変化がない事から、地域内の町内会長等関係者で相談し、

地域として自己責任で体育館に入る事で決着した。

 

【執筆】青葉台3丁目自主防災会運営委員長(中越地震当時) 畔上純一郎(第3話)