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151号~200号


200号 2024/5/10

復興とは

 

新潟県中越大震災の後、

研究者を中心に「復興とは何か」をめぐり様々な議論が行われました。

特に私の印象に残っている言葉を挙げておきます。

(今、読んでもそのとおりだなあと思います)

 

復興とは、「復旧」か「復興」か二者選択ではなく、連続的なプロセス

 

「中越の復興は、復旧が終わらぬうちにはじまっていたんです。」

 

「創造復興」とは、現状より優れた状態を目指す回復行為

 

創造復興という創意工夫の復興こそが人間存在の復興である

 

復興とは、被災者のために災害による被害を回復し、

被災者の不安を解消して、将来に希望をもたせること

 

復興とは、災害によって一度は衰えた被災者や被災地が再び盛んになること

 

復興とは、災害後の長い過程における人や自然の全ての営み

 

復興に向かおうとする人々の前向きな意識こそ復興の本質

 

震災をきっかけに一人ひとりが再生していくその過程が復興

 

復興は結果ではなくプロセス、状態ではなく動き


 【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 事務局長 諸橋和行(第3話)

199号 2024/5/9

長岡市災害ボランティアセンターの運営 ~勇気づけの一言が、心の支えに~ 

 

災害ボラセンの運営中は、平時には想像できない事象に対し、心の休まる時はなかった。

日々、早朝に出勤し、帰宅は夜の10時頃という生活を送っており、多忙極まりなかった。

またこの時期は、市町村社協合併の時期と重なり、

長岡市社協も6市町村社協(長岡市、中之島町、越路町、三島町、山古志村、小国町の各社協)

との合併協議が整いつつあった。

 

ある日、真夜中に自転車を走らせ帰宅している最中に、

ポケットの中に入っていた携帯電話が鳴った。

すぐに自転車を止め、携帯電話を確認したところ、ショートメールの受信であった。

送り主は、長岡市社協と合併を行うN町社協で、

7.13水害の際に災害ボラセンの運営に中心的にかかわった先輩職員からである。

 

「がんばれ、本間」

 

たった一言ではあったが、この言葉は、どれだけ私の心が癒されたことか。

普段、私は人に対し、“がんばれ” という言葉は使わないのだが、

この時ほど、私の心に響いた一言はなかった。

 

 【執筆】長岡市社会福祉協議会  本間和也(第7話)

198号 2024/5/8

おいしかった食べ物について

 

中越20年プロジェクトに学生研究員として携わっている中村早希です。

毎日欠かさず読んでいる方も、かいつまんで読む派の皆さんも、

そろそろ大学生が書いた能天気な文章が恋しい頃なのではないでしょうか。

 

そこで今日は長岡や中越地域で過ごしている中で、

とてもおいしいと思ったものやお店を発表します。

 

【ラーメン】

 ・つり吉

 ・暁天

 ・いち井

 ・青島食堂

 ・らーめんポアル

 ・杭州飯店

 

【山菜】

 ・こごみ

 ・うるい

 ・きのめ

 ・こしあぶら

 ・ふきのとう

 ・たけのこ

 

【その他ローカルフード等】

 ・安田屋のキャベツメンチ

 ・栃尾のあぶらげ

 ・木沢そば

 ・春日さんの生ハム

 ・上谷さんのお寿司

 ・多菜田の神楽南蛮味噌

 ・フレンドのイタリアン

 ・江口だんご

 ・花月のお好み焼き

 ・モカのカレー

 ・日本酒のすべて

 ・米

 

以上です。

ラーメンと言えばここだろう、山菜と言えばあれがはずせない、

こっちの特産ならあれがあるじゃないか!と思われた皆さん、

私はまだそれらを食べたことがないはずです。

ぜひ教えてください。よろしくお願いします。


 【執筆】大阪大学人間科学部人間科学科4年 共生行動論研究室 中村早希(第3話)

197号 2024/5/7

避難所の閉鎖に向けて(第5回)

 

冬が迫り、罹災証明の発行とそれに伴う仮設住宅への聞き取りが始まった。

私の管理する避難所に町内全ての家族が避難しているわけではないので、

他の避難所や親戚に身を寄せている住民にも意向調査をしなければならない。

特に高齢者は説明してもなかなか理解してもらえず往生した。

 

避難所の閉鎖が決まると、学校も現状復帰で返さなくてはいけない。

自衛隊のテントや仮設トイレはそれぞれが引き上げてくれたが、

支援物資や支援物資を入れていた仮設の倉庫はこちらで何とかしないといけない。

 

とりあえず支援物資は仕訳を手伝ってもらい整理して我が家の倉庫に入れた。

妻からは「家の片づけはどうするの」と言われ続けていたが、

そちらは後回しで妻に任せきりだった。

 

仕事にも復帰して、イベント会社だったので、復旧や復興へ向けての仕事が中心となった。

やがて、地域内に仮設住宅が完成し皮肉なことに大雪の冬を迎えることになる。

(つづく)

 【執筆】小千谷市にぎわい交流課 地域づくり支援員 石曽根 徹(第5話)

 元小千谷市地域復興支援員(小千谷市産業開発センター所属)

196号 2024/5/6

被災現場の人と人(その1)

 

あの日、余震と多くの叫び声の中、

街灯も消えていたが、街中の様子はハッキリ見えていた。

雨は無く、月明かりが、揺れる倒壊家屋や、

その屋根の上で救助活動する消防士達の姿をハッキリ見せてくれていた。

 

余震の続く中、川口町役場庁舎前の駐車場に多くが集まっていた。

そこに数人の町職員や消防署職員と共に集まった。

庁舎内は、机などが散乱し入れる状況にはなく、

屋外で集まって情報を共有し始めた。

 

その後、順序も時間も忘れたが、

パイプ椅子、机、テントが出てきて本部を形作っていった。

 

地域内で家屋倒壊による人的被害も発生した。

帰ってきた消防士の顔は黒く、表情は無かった。

祖父と共に命を落とした小学校6年生の彼女の名前は、

地域の者は今も忘れない。

当時の教職員は、長くその命日に手を合わせていると聞いた。


 【執筆】中越市民防災安全士会 会員 吉原 昌隆(第3話)

195号 2024/5/5

美味しかった中越(その1) 

 

中越の復興といえば、美味しいものでしょう。

集落に通っていた人も、なんだかんだいって、

結局この美味しいものに引っぱられて足を運んだ人も少なくないはず。

数多ある私の胃袋の記憶から忘れられない美味しかったものを

書き綴ってみたいと思います。

 

まず一番は、川口町木沢のSさんがつくる、クルミごはん。

これは、ひじきとクルミがごはんと炒められたものなんですが、

「これ味付けはなんなんですか?」

「いや、塩コショーだ」

「うっそだぁ~!?」な味なんです。

とにかく、一口食べると、美味しくて美味しくて、

満腹中枢はどこへいったのか、ひたすら食べ続けてしまうのです。

 

Sさんちでは、他に美味しいものをたくさんいただきました。

小ぶりの蕪を丸のまま揚げたスープのような天ぷら。

寒い日に体を温めてくれる大根餅。

箸休めに、カラフルな野菜の糀漬け。

Sさんが友達と釣ってきた小鯵の南蛮漬けはビールと最高でした。

 

おなかが膨れたら、「おまえ、昼寝したら?」と、炬燵で寝かしてもらい、

寝ぼけて脱いだ濡れた靴下(雪道なのに大阪からスニーカーで来てしまったので)は、

目覚めたら灯油ストーブの前で乾かされていました。

ありがとうございました、ごちそうさまでした。


  【執筆】大阪大学大学院人間科学研究科 准教授 宮本匠(第5話)

194号 2024/5/4

今考えて思うこと(第6話)

 

震災の半年後、平成17年4月から復興学習「太田学」がスタートしました。

指導者には小森ケン子先生、そして藤林校長先生のもと、

全教職員が一つになって取り組みました。

 

最初にふるさと太田はどんな場所なのだろうか、という学習から始めました。

なぜなら、私たちが目指したものは復旧ではなく復興、

つまり震災前より活気ある地域になる事を目指したからです。

 

この学習の特徴は体験と概念理解を反復させ、机上の空論にならないことと、

子ども自身が課題を考え、それを子ども自身が解決し、

そこで生まれた新たな課題を解決しながら進めていくものです。

教師はその思考を支援することに徹し、教えることは極力控えました。

 

その学習成果を地域の方に集まってもらい発表しました。

平成17年10月23日、まさに震災1年後のことでした。

発表会後「大人がみんな下を向き、途方に暮れる毎日を過ごしている中、

中学生が明るい希望を示してくれた。こんなに元気づけられたことはなかった。」

と涙ながらに地域の方が話してくれたことは今でも鮮明に覚えています。

 

この学習は新潟日報社、新潟教弘主催特色ある教育実践優秀賞受賞、

兵庫県、(株)毎日新聞社、(公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構が主催する

1.17防災未来賞「ぼうさい甲子園」ぼうさい大賞を受賞しました。

さらに、新潟日報事業社より「中越地震に負けない太田っ子」として出版されました。


  【執筆】長岡工業高等専門学校 非常勤講師 五十嵐一浩(第6話)

 (前三条市立第四中学校 校長)

193号 2024/5/3

博物館との連携

 

新潟県立歴史博物館との連携も、

展示施設を整備していくためにもどうしても必要でした。

当時の私たちは展示や資料の取り扱いに関しても素人当然でしたので、

展示の作り方もわかりません。

地域の復興には、記憶喪失のムラを作ってしまわないためにも、

そこにかつてあった暮らしを元通りにすることだけではなく、

地域に残された歴史的な資料を残していくことも課題となりました。

 

山古志村にかつてあった資料館に残されていた民俗資料などは、

新潟県立歴史博物館、新潟大学、長岡市立中央図書館文書資料室などが核となって、

学生や多くの人たちの助けによってレスキューされました。

平時から研究などでつながりがあったからこそ、

いざという時に機能的に資料レスキューが行われたことと考えています。

こういったネットワークにも加えていただき、

研究会などにもたびたび参加させていただきました。

施設をつくる際には博物館の学芸員から運営委員としても参加していただき、

たくさんの意見をいただくことになりました。

 

新潟県立歴史博物館では、山古志の復旧・復興支援として

企画展「山古志ふたたび」が検討されていました。

我々機構も主催のひとつとして参加させていただき、それこそ、

展示の構成やパネルづくり、資料の展示についてなど多くを教えていただきました。

被災物、つまり被災した生活道具などもケースの中で展示しました。

長岡造形大学の学生たちが制作していた地形模型なども展示に利用され、

後輩たちの活躍にも触れることができました。

協力者への調整や、すでにある資料の活用、メッセージ、

伝えたいストーリーの構築など多くを学ぶことができました。

 

この「山古志ふたたび」で使われた資料やパネルなどは、

当時の山古志地域のインフォメーションだった山古志会館の茶坊主に持ち込み、

この地でいずれ創ることになる「おらたる」の試行を行うこともできました。


  【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第9話)

 (元中越メモリアル回廊担当職員)

192号 2024/5/2

第7話 東川口町会に企画部門はない

 

東川口町会の庶務になって今年で10年になる。

当初、関連会社に転籍して柏崎の事業所に通勤していた。

町会の仕事に理念のないまま会長の指示通りに書類を作り、

会議を開き、ほぼ1か月に1回の町内行事を淡々と執行していった。

 

2年もすると毎年同じことを繰り返しているだけの事を理解し、

昨年度の書類をチョコチョコと直して協議員に提示して事業計画を遂行した。

協議員は2年任期、執行部は継続任期なので、役員が変われば会の運営は執行部の言いなりに近い。

なまじ頭を使うと面倒なので、なにも考えず会長の指示通りに物事を運ぶことにしていた。

 

柏崎に通い始めて3年になろうかという頃、母が他界した。

中越地震の後で建て替えた家で孫たちと過ごし、

「こっげいい家に住まわしてもらって、ホテルに住んでるようだ。幸せだいや」と賢い人だった。

一気に気が抜けて仕事を辞め主夫となった。

 

時間が出来て町会の仕事を眺め直す。

この組織には「企画」を行う部門が存在しないことに気が付いた。

その最たるものが防災訓練であった。

 

「防災訓練をしているだけまだまし」というのが一般的な町内会とも噂に聞くが、

中越地震であれだけの耳目を集め、支援を受けた震源地の町で、

年に1回一次集合場所に集まり、出席した人の人頭を数えて飲み物を配り、

避難場所に移動して代表区長による消防署への通報訓練や住民による水消火器の操作訓練を実施していた。

 

確かに体裁としては整っているが、各区の区長や防災委員は執行部で作った

シナリオをトレースすることに重きを置いていた。

しかも、シナリオは実際の時には役に立たないと区長も防災委員も自ら認め、

住民は従順に指示に従って行動する「良い人たち」だった。

「自ら考えてその時々にあった最善の行動をする」という防災の原理原則はそこには存在していなかった。

 

「ひと(他人)からしられて嫌だと思った事はひとにしちゃならん。

ひとにしてもらって、ありがてぇと思ったら同じことをひとにしてらんばならん」

母の口癖だった。誰かのために役に立たねば存在の意義はない。反骨心が芽生えていた。

 

  【執筆】東川口町会 庶務 上村光一(第10話)

191号 2024/5/1

被災者のパワーを引き出す復旧・復興!-市長としての心がけ(8)

 -(公社)中越防災安全推進機構の誕生秘話-

 

平井邦彦先生から中越防災安全推進機構の設立を提案されたとき、

正直に言えば私は大いに迷ったことを覚えている。

 

新潟県中越大震災復興ビジョンでは、

確かに、防災・安全に関する学問・研究(官民連携)として、

①市民安全大学の開設と②地方災害総合研究センターの設置が提案されている。

しかし、自立して運営できるかどうか確信がなかったのである。

 

自立した運営のために、平井先生は、財団法人とすることを提案された。

長岡市や新潟県の拠出金により安定した運営が期待できるからである。

しかし、泉田知事は、財団法人の設立に強く反対した。

平井先生は機構の目的からして財団法人であるべきだと強く主張されたが、

泉田知事は頑として納得しない。

仕方なく、私は社団法人でもやむを得ないと平井先生を説得したのである。

 

私は、経済的基盤を整えるために、

長岡震災アーカイブセンター"きおくみらい"の管理業務と

市民防災安全大学の実施の応援をすることとした。

また、それだけでは不十分であったので、"きおくみらい"の管理に要する費用については、

数年分の復興基金を一括して支給することを新潟県に提案し実現した。

機構が誕生するためには、様々な生みの苦しみはあったが、当初想定した事業、

特に市民防災安全大学が現在まで継続していることに私は感動している。


  【執筆】前長岡市長/(一社)地方行政リーダーシップ研究会代表理事 森民夫(第8話)

190号 2024/4/30

幸せの「きずなの木札」

 

川口地域には10月23日の震災の記憶と記録を伝える

メモリアル施設のひとつである「川口きずな館」があります。

 

きずな館には地震からの復興の過程で生まれた

「人と人との絆」をテーマとした展示がされているほか、

川口運動公園内というロケーションを活かし、

地域内外の新たな絆を育んでいく交流拠点という顔もあります。

講演会や手芸教室、料理講習会などさまざまなイベントが行われてきました。

 

そのかわきりとなったのが、平成24年の秋、

オープンしたてのきずな館で催された「結婚お披露目会」。

新郎は新潟市出身、新婦は千葉県の出身。

川口がご縁で出会い、結ばれた二人がきずな館に残したのが

「荒谷の夫婦杉で二人のご縁が結ばれました。ここに結婚を誓います。」

と記された木札です。

 

その後も川口が縁となり新たに生まれた3組の夫婦が、

それぞれの想いを木札に記しています。

短いけれどほっこりとする誓いのことばが書かれた木札はきずな館に展示されています。

幸せをお裾分けをいただいた気分にさせる木札、きずな館でぜひご覧ください。


  【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構川口サテライト 地域復興支援員 佐々木ゆみ子(第7話)

189号 2024/4/29

中越地震から半年間が復興の正念場だった(その7)

 -平成大合併の前に「山古志村復興ビジョン」づくり-

 

県からの復興ビジョンを踏まえ、2005年4月以降、

つまり合併自治体は合併後に復興計画の策定に取り組みましたが、

それを待つことなく、合併前に各々の地域の復興の思いをまとめて、

自分事としての復興をめざそうという動きもありました。

 

とくに災害報道を通して全国に知られた全村避難した旧山古志村は、

多くが仮設住宅に移動した12月中旬から「山古志復興ビジョン」の策定に取り組み、

合併前の3月15日に「山古志復興プラン」を公表しました。

 

「山古志復興プラン」は、全村避難から『帰ろう山古志へ』を合言葉に、

役場主導ではありましたが、集落ごとに仮設集会場を配置した仮住まいでの

ミーティングを重ねて、<復興方針>と<復興目標>をまとめました。

 

<山古志復興の基本方針>

 ①道路の復旧

 ②安全な土地の復旧整備

 ③ライフラインの復旧

 ④住宅の復旧

 ⑤公共機能の復旧

 ⑥生業の再生

 ⑦新しい山村文化の創造

 ⑧中山間地域の生活産業の創造

 ⑨親と子どもの夢をかなえる学校づくり

 ⑩生涯現役で暮らせる村づくり

 ⑪中山間地域における不安のない地域社会づくり

 ⑫山古志らしい景観の創造

 ⑬トータルに情報発信する仕組みづくり

 

<山古志復興の目標・重点事業>

*帰村の基本目標 時期:2006年9月

*復興事業具現化の目標:復興重点事業プロジェクト

 ①中山間地型復興モデル住宅

 ②ネットワーク型防災社会

 ③山古志ブランド農業

 ④錦鯉の聖地としての交流拡大

 ⑤住民起業、滞在型リゾート

 ⑥山古志街道

 ⑦美しい景観の形成

 ⑧山古志情報センター

 

山古志復興プランは国の山古志復興会議および新潟県に支持され、この復興プランを懐に、

震災から半年後の2005年4月1日に、山古志村は長岡市と合併しました。

そして長岡市は8月10日に「復興計画」を公表しました。

 

  【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第14話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

188号 2024/4/28

中越地震から半年間が復興の正念場だった(その6)

 -新潟県「中越大震災復興ビジョン」公表-

 

中越地震発生から半年後、それは2005年4月の新年度当初でした。

同時にそれは、平成大合併後の新しい自治体での復興計画の策定と

復興事業の推進のスタートでもありました。

そのため、復興計画の策定にあたって不可欠な復興ビジョン(復興方針)の検討を

先行しておく必要がありました。

 

復興基金が確定した2004年12月27日に「新潟県中越大震災復興ビジョン策定懇話会」が発足しました。

泉田知事は「専門家作業グループ」を設置し、学識研究者、民間、地元自治体による、

自由な議論によってビジョンを作成することと、

「複数の復興シナリオを作ってほしい」と要請されました。

被災者が仮住まいに入った年末からの2カ月で「新潟県中越大震災震災復興ビジョン」をまとめ、

2005年3月1日に「中越大震災復興基金」の設置とともに公表されました。

 

それは阪神・淡路大震災の10年目にあたり、さまざまに復興記録が公表されていた時期であり、

中越大震災復興ビジョンとしては、

10年後(2014年)に「出してはならない記録(回避すべき復興シナリオ)」と

「出すことを目指す記録(実現すべき復興シナリオ)」とを描くという

前例のない復興ビジョンでした。

 

“出してはならない記録”としては、

復興への大いなる努力にもかかわらず、「日本の中山間地の息の根を止めた地震」として

高齢化と過疎化を加速し、10年後の荒れ果てた中山間地の姿が描かれました。

 

一方、“出すことを目指す記録”としては、

「日本の中山間地を再生・申請させた地震」として、

「最素朴と最新鋭が絶妙に組み合わさり、都市と川と棚田と山が一体となって光り輝く中越」

の姿が描かれました。

 

このビジョンに基づき、地元被災自治体はそれぞれの復興シナリオ「復興計画」を策定し、

被災者も集落ごとの復興シナリオ「集落復興計画」を策定することとなりました。

(その7へつづく・明日配信)

 

  【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第13話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

187号 2024/4/27

中越地震から半年間が復興の正念場だった(その5)

 -新潟県「中越大震災復興基金」の設立(続)-

 

新潟県が市中銀行から3000億円を調達し、

年利2%で運用することで年間60億円の利子を生みます。

10年間で600億円の基金になりました。

銀行への利子分が国の交付税措置として負担されることで、

「特別法による措置はしないが、この基金を使って、県と被災自治体で

必要な復興事業に自ら取り組むこと」を国が認めたものでした。

 

この基金は行政から独立した「財団法人中越大震災復興基金」を設立して運用することとし、

既存制度の補助金事業では対応できない被災者や被災地域のニーズに

きめ細かく対応する復興基金事業として、

10年間で140以上のユニークな復興の取り組みを可能としました。

行政による公助ではなく、財団理事会で決議できる民間による支援でした。

 

「手作り田直し支援」「地域コミュニティ等施設再建支援」などとともに、

「復興支援員」「中越防災安全推進機構」「山の暮らし再生機構」「中越復興市民会議」など

行政と被災者・地域の間で復興を支える中間支援体制も、この基金無くしてはあり得ませんでした。

 

しかし、ゼロ金利の時代での東日本大震災では、

復興交付金としての復興基金を財団方式ではなく行政が直接運用する条例方式となり、

被災者と被災地域社会に寄り添う基金の役割が果たされていないのです。

(その6へつづく・明日配信)


  【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第12話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

186号 2024/4/26

中越地震から半年間が復興の正念場だった(その4)

 -新潟県「中越大震災復興基金」の設立-

 

阪神・淡路大震災から9年9か月後に発生した二度目の最大震度7の中越地震に、

内閣府を中核とする新たな災害対応体制を講じていた国も、最初の本格対応で、

直後に非常災害対策本部を起ち上げ、全面的にバックアップする体制を講じました。

 

一方、新潟県知事と被災自治体の市町村長は、

阪神・淡路大震災と同様に中越地震復旧・復興特別措置法の制定を要請しましたが、

実現はされませんでした。

 

しかし、阪神・淡路大震災の復興でも大きな役割を担った「復興基金」が

2005年3月1日に設置されました。全国で4例目の基金でしたが、

特別法なら使用枠が決められてしまう“ひも付きの補助金”に対して、

被災地で“自由に活用できる復興基金”は、

中越の被災地域社会に寄り添った復興を実現するカギとなり、

有効かつ効果的に中越地域の特徴的な復興の推進を支えたのです。

(その5へつづく・明日配信)

 

  【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第11話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

185号 2024/4/25

長中越地震から半年間が復興の正念場だった(その3)

 -平成大合併のさなかに発生した中越大震災-

 

中越大震災は、平成大合併の最中の地震でした。

災害対策基本法(1962)は、地域防災計画に基づいて災害に対応するのは市町村だとしてます。

 

新潟県の平成大合併は、中越大震災発生(2004.10.23)までに、

新潟、新発田、佐渡、阿賀野市で合併がなされ、

大震災後には、魚沼、南魚沼、上越、糸魚川、新潟、長岡、十日町、妙高、阿賀、新発田、

三条、柏崎、胎内、南魚沼、新潟、長岡、五泉、燕、村上、長岡市で合併が進展しました。(重複有り)

 

とくに中越地震で住家が45棟以上全壊した自治体を含む24市町村が

合併によって4市(魚沼・長岡・十日町・柏崎)になり、

未合併の自治体は2市(小千谷・見附)でした。

 

つまり、中越大震災直後の災害対応は、旧市町村で対応し、

復旧・復興は合併後の新自治体で取り組むことになった前例のない災害でした。

堀之内(全壊56棟)は10日後に合併して魚沼市になり、

栃尾市(45棟)、小国町(125棟)、越路町(152棟)、山古志村(339棟)は長岡市(927棟)と半年後に合併。

また十日町市(100棟)も半年後に4町村と合併したのです。

合併することなく災害対応から復旧復興に取り組んだ大きな被災自治体は

小千谷市(622棟)、川口町(606棟)、見附市(52棟)でしたが、

川口町は6年後に長岡市と合併しました。

 

復興計画は、2005年の平成合併後に柏崎(6月)、小千谷(7月)、長岡(8月)、栃尾(8月)、

十日町(9月)、川口(10月)、見附(12月) で策定、魚沼市は2006年3月でした。

その中で、山古志村および小国町は合併前に復興ビジョンや復興構想を策定。

栃尾市及び川口町は合併前に復興計画を策定し、

それらを持参して合併後に復興事業に取り組んでいきました。

(その4へつづく・明日配信)

 

  【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第10話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

184号 2024/4/24

中越地震から半年間が復興の正念場だった(その2)

 -山古志:孤立による全村避難から復興へ-

 

中越地震は積雪期の2カ月前に発生しました。

地震が発生する3~2日前にかけて、台風23号による大雨とも重なり、

中越地震の震源地であった山地では山塊崩落が多発しました。

 

最大の課題は集落をつなぐ幹線道路が寸断されたことで、

積雪期には除雪もできず、村ごと孤立化することから、

山古志村での仮設居住は不可能との長島村長の決断で、

震災の3日後に全村避難を決められました。

 

避難先は、翌年4月に合併することが決まっていた長岡市で、ヘリコプターによる移動でした。

26日には全域で10万人に達した避難者の中で、山古志村は村外にバラバラに避難しましたが、

その後、避難所間の再移動で集落ごとにまとまられ、

情報伝達も速やかになり、孤独感も緩和され、共助体制が出来上がっていきました。

 

11月末から仮設住宅への入居が始まり、集落ごとにまとまっての仮住まいへの転居は進み、

クリスマス前の12月23日に山古志村の仮設住宅入村式が行われました。

その前日から雪が降り始めました。

集落には各々集会所があったように、集落ごとに仮設集会施設を要望し、整備されました。

旧住所で出した郵便物も配達され、駐在所も建てられていました。

 

復旧復興に向けての課題であった広域インフラも、11月5日に関越自動車道が開通し、

暮れも押し迫った12月28日には史上初めて脱線した上越新幹線も全線開通しました。

 

年が明けて、中越地域は昭和61年豪雪以来19年ぶりの大雪になりました。

(その3へつづく・明日配信)


  【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第9話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

183号 2024/4/23

中越地震から半年間が復興の正念場だった(その1)

 

※本日でメルマガ配信からちょうど半年が経ちました。

 2024.10.23まであと半年、折り返し地点です。

 そこで中林一樹先生より「中越地震から半年間」をテーマに

 複数話、続けて配信させていただきます。

 

 

◆中越地震から半年間が復興の正念場だった(その1)

 

2004年10月23日17時56分から2005年4月23日までの6カ月は、

20年目の今日まで続く新潟県中越地震の復興の基盤を作った半年でした。

この半年の間に、取り組んだ、取り組まざるを得なかった出来事が、

中越の復興をもたらしました。

その取り組みを振り返っておきたいと思います。

 

この震災からの半年間を振りかえる時、思い返されるのは

 「平成の大合併」

 「避難・仮設期のコミュニティ団結力」

 「新潟県中越復興基金」

 「新潟県の中越復興ビジョン」

 「山古志村の復興プラン:帰ろう 山古志への策定」

です。

これらが大雪に中の半年間で成し遂げられたのです。

 

平成の大合併では、全国で約3300団体の基礎自治体が約1700の団体に半減されたのです。

新潟県では112市町村(1999年3月)が30市町村(2010年3月)になり、

中越地域では26市町村が6市になったのです。

 

もしこの平成合併が無かったら、

26市町村を越える独立した自治体がばらばらと復興計画を策定し、

県・国との縦の関係性だけで復興に取り組むことになっていたことでしょう。

自治体間の様々な格差・不平等が復興をギクシャクさせて、復旧も遅れ、

地域衰退を加速したのではないかと思うのです。

 

この中越地震の発生からの半年間、中越復興の正念場を振り返っておきたいと思います。

(その2へつづく・明日配信)


  【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第8話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

182号 2024/4/22

竹田元気づくり会議と遊歩道整備

 

竹田集落の後ろの山にある、東川口から木沢までつながる遊歩道。

震災で崩れましたが大勢のボランティアが復旧してくれました。

案内看板の一つに「ボランティアが復旧しました」というものがあり、

今も遊歩道に設置しています。

 

そしてきのこの展望台や階段の修復にも多くのボランティアが協力してくれました。

作業には長岡技術科学大学の「ボルナツ」、

追悼式や震災復興イベントをしていた「にいがたからみんなえがおに」のメンバー、

他にもさまざまなところからの協力がありました。

これらのメンバーは竹田の集落行事にも参加して手伝ってくれたり、

本当に感謝しています。

 

「ボルナツ」の初期メンバーには活動場所の相談を受けたり、

「にいがたからみんなえがおに」のメンバーとは、

イベントの地元への挨拶をいっしょにまわったり、できる範囲で恩返し。

竹田元気づくり会議ではお互い様の気持ちを今も大切にしています。

 

  【執筆】竹田元気づくり会議 代表 砂川祐次郎(第8話)

181号 2024/4/21

中越大震災復興基金と中越防災安全推進機構(第3回)

 

今号からは中越機構の設立と事業展開について、少し具体的に振り返って見ます。

 

中越機構の設立母体は、先にも記していますが

中越地震からの復旧・復興を下支えすることを目的として

地元長岡の3大学・1高専・1研究所により結成された「防災安全コンソーシアム」

(以降「コンソーシアム」)でした。

 

3大学とは「長岡技術科学大学・長岡造形大学・長岡大学」、

1高専とは「長岡工業高等専門学校」、

1研究所は「防災科学研究所雪氷科学研究センター」ですが、

議論をリードしていたのは「中越大震災復興ビジョン」の起草でもある

長岡造形大学の平井邦彦教授でした。

 

2005(平成17)年10月に結成されたコンソーシアムに、

長岡市、長岡商工会議所、北陸建設弘済会が加わって、

復旧・復興組織設立に向けて具体的な検討・申請がなされ、

平成18年9月1日、社団法人として設立されています。

当初NPO法人として設立を目指していましたが、

結果的には社団法人としてスタートします。

 

  【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第9話)

 (公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)

180号 2024/4/20

中越地震の経験を活かす(3)熊本地震

 

中越地震での経験を基に、その後の被災地支援での経験も合わせて形づくられた

県、市町村、研究者、企業等合同の支援体制である「チーム新潟」のその後の活動を一つ。

 

2016年の熊本地震。

遠隔の地にも関わらず、新潟県内からは多くの市町村が

「チーム新潟」として被災地支援に参加した。

支援内容は十八番の家屋被害認定調査。

加えて今回は「被災者生活再建支援システム」による罹災証明の発行も本格的に支援した。

 

被災市町村での直接支援の他に、

熊本県庁には被災市町村からの相談や質問に対応するコールセンターが設置され、

この運営を「チーム新潟」が担った。

 

災害対応や被災地支援の経験豊富な新潟県内市町村は大いに頼りにされており、

「チーム新潟」は他の災害でも活躍している。

これらの活動は、単に被災地支援に止まらず、

自らが被災した場合の災害対応力の強化にも、確実に結びついていることだろう。


  【執筆】公益財団法人山の暮らし再生機構 元理事長 山口壽道(第9話)

 (公益社団法人中越防災安全推進機構 元事務局長)

179号 2024/4/19

伝えたいことを伝える難しさ(第7回)

 

中越地震のあと、冬を間近に控えて、補修が間に合わない住宅が多いことから、

応急補強のやり方や除雪作業中の事故防止のための注意など、

住民に向けた資料を大急ぎで作りました。

 

例を挙げると、

◆住宅チェックシート

◆春までの応急修理方法

◆除雪作業の危険と対策

◆子供たちを守るために

◆簡易消雪パイプの施工法

◆屋根雪処理の判断基準、などなど。

 

とにかく、冬までに間に合うできることを整理し資料を作成したうえで、

Webで公開したのです。

それらの資料は、公開直後から大勢の人にアクセスして頂きました。

 

しかし、よく考えると被災地は高齢過疎の典型ともいえる地域です。

そして働き盛りでインターネットも使いこなしている年代ではなく、

インターネットなど触ったこともないような人々にこそ届いて欲しい内容ばかりなのです。

伝えたいことを伝えたい人に正しく伝えるにはどうしたらよいのだろう、

というのが大きな悩みでした。(つづく)


  【執筆】長岡技術科学大学 教授 上村靖司(第7話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 副実行委員長)

178号 2024/4/18

地域復興支援員のこと(その7)

 

震災関係の書籍を漁っても、地域復興支援員の記述はそう多くありません。

それは、黒子のような働きをするのが任務だったからです。

あくまでも主体は地域住民。

復興に必要だと思われることを一緒に実現していく伴走者として地域復興支援員がいました。

 

その役割は、大きく変わることになります。

黒子だった私たちは突然舞台の中央に連れて行かれ、こう宣告されます。

「あなたが主役の劇を作りなさい。」

 

今までは地域復興支援員という人材に財源がついていたのが、

事業に財源がつくことになり、そこに携わる人の分だけ人件費が払われると。

激震が走りました。

何か事業を興さないといけない。地域のためになり、且つ自分が主体で回していく何かを。

 

私は一緒に広報誌作成を担当していた仲間と山の家庭料理教室をすることにしました。

地域のお母さんたちを講師に招いて行う料理教室は、

山古志にいたときに初めて担当した企画、私の原点。

でもこれからは私たちが受け継ごうと思いました。

 

2018年3月末をもって地域復興支援員設置支援事業は終了、

地域復興支援員がいなくなるまで、残り3年です。


  【執筆】元(公財)山の暮らし再生機構 地域復興支援員 臼井菜乃美(第7話))

177号 2024/4/17

フリーカメラマンの出会いで地元の人たちとの繋がりを知る

 

中越地震発生後はよく旧山古志村を訪れるようになりました。

取材を重ねていくことであるフリーカメラマンと出会いました。

長岡市を拠点に活動するフリーカメラマンの男性。

闘牛や山古志の子ども達、そして集落の人たちを取材をしていると

必ず現場に顔をだしている男性でした。

聞くところによると昭和50年ころから山古志村を継続的に撮影しているというのです。

 

地震により全村避難が続いていた頃も

山古志の人々の暮らしを写真で記録し続けていた彼の魅力にとりつかれ、

いつしか彼を取材するようになりました。

 

彼を主人公にした番組を通して分かったことは「地元の人たちとの繋がり」でした。

どこへ行っても集落の人たちや子ども達は穏やかな表情で彼を迎え入れ、

「写真のおじさん」と慕っていました。

そして皆の自然体の写真を撮影するのです。

集落の人たちが戻ったときにもファインダーを通じて

人々の「今の姿」を撮影し続けていました。

 

こんなにも集落に溶け込み、彼には本音で話す人々。

長年の信頼感と繋がりの強さは今でも私の働き方の原点となっています。


  【執筆】BSN新潟放送 メディア本部報道制作局 報道部長 酒田暁子(第4話)

176号 2024/4/16

大地復興推進会議のこと

 

震災が発生して以降、阪神・淡路大震災以降はじめて震度7を記録した地震ということもあり、

多くの研究者や専門家も現地を訪れ、さまざまな調査や提言につながるような活動を展開した。

 

奇しくも平井邦彦先生が在籍していた長岡造形大学は、その際のサポートを多く担うことにもなった。

そういった支援?活動を大学としても実施するなか、

阪神・淡路大震災の被災地で復興都市計画、復興まちづくりに尽力した方々からのアドバイスがあった。

それが、行政と地域、被災者、そして支援者、専門家をつなぐ仕組みを

早いうちに作っておいたほうがいい、ということであった。

 

平井先生が関係各所に働きかけ、大地復興推進会議と銘打ったプラットフォームが

長岡に立ち上げられたのは震災から約二ヶ月が経過した12月16日である。

 

趣意書には、会議の目的、性格、として

 ①円卓会議であること、

 ②2005年3月までを第一期とすること、

 ③復興「推進」会議であって復興「支援」会議ではないこと

が謳われている。

 

神戸の地に立ち上げられた被災者復興支援会議を念頭に置きつつ、

ふるさとの復興のためには、各主体が自ら地域復興に直接的にも関与していくことが必要なのだ、

という当時の雰囲気がうかがえる。

それはその後、様々な専門家が現状を共有し、

共同してさまざまな活動を進めていく契機を生み出していくことになった。


  【執筆】兵庫県立大学大学院 准教授 澤田雅浩(第6話)

 (長岡震災アーカイブセンターきおくみらい 館長)

175号 2024/4/15

かたくりの会 ~山古志種苧原集落~

 

阪神・淡路大震災の被災地でつくられていた「負けないゾウ」が、

中越地震の被災地にも伝わってきました。

その負けないゾウを作り始めたのが、山古志種苧原集落の母ちゃんたちです。

 

震災後、「カタクリの会」として活動を始め、負けないゾウだけでなく、

錦鯉ちゃん、闘牛君、アルパカのぬいぐるみなどオリジナルのグッズも開発し、

山古志のお土産として喜ばれています。

 

アルパカのぬいぐるみは飛騨地方の郷土玩具サルボボの形を参考にし、

また頭の上には本物のアルパカの毛をくっつけています。

錦鯉ちゃんは通常8センチ程度のストラップです。

最近は2倍の大きさにしたワークショップキットも考案し、

地元山古志の子どもたちの学習教材にも取り入れられました。

 

毎週水曜日、種苧原の中道屋さんに集まってグッズを作っています。

どんなにおしゃべりしながらでも、作業の手は止まることはありません。

 

細々と、むりせず続けている活動で、年に1度、

メンバーで温泉旅行に行くのが楽しみな母ちゃんたちの作品は、

やまこしの「おらたる」で販売されています。

ぜひ手に取ってみてくださいね。

 

【執筆】かたくりの会ミシン係 山﨑麻里子(第2話)

174号 2024/4/14

青葉台3丁目自主防災会の歩み 話題(2) 自主防災会活動開始

 

平成13年、自主防災会活動が根付くよう、町内会長の下に専任の防災活動を行う

自主防災委員会をつくり、3名を専任として新たな部門を作り活動を開始した。

自主防災委員会の最初の仕事は、町内構成員の現状と災害時の被災状況の把握、

そして避難方法や避難者確認が重要との事から、

町内住民構成の調査と災害時の避難状況(人員)の確認を進める事とした。

 

この頃、丁度「個人情報保護法」が審議されていて、

家族情報や連絡先電話番号は出さないとの認識が高まった時期であった。

しかし、町内住民同士の助け合いとあわせ、災害時の対応に絶対必要な事項である事を

機会あるごとに町内会長や役員、防災委員会から説明を行い、

平成16年に世帯別の住民台帳の作成を行い、町内の約65%からデーター提出を得た。

 

併せて、提出して頂いた情報を基に、

班別の家族構成や避難時に救助手伝い(災害弱者含む)の有無、

緊急連絡先等が分る「班別避難者確認リスト」、

災害弱者の必要情報を記載した「要援護者カード」を作成した。

 

平成16年6月に出来上がった「班別避難者確認リスト」と「要援護者カード」、

各世帯が無事避難した事が道路から判るようにした「赤い旗」掲示を使って、

全住民が参加しての避難訓練を実施した。

全町内会世帯の約85%の参加、全人員の73%と多くの参加があった。

 

【執筆】青葉台3丁目自主防災会運営委員長(中越地震当時) 畔上純一郎(第2話)

173号 2024/4/13

中越から能登へ ② -被災者に元気が出る集落毎の仮住まいと集会施設-

 

新潟県中越地震で全村避難した山古志では、

集落ごとにまとまって、仮設住宅への入居を原則とした。

 

積雪期に、復興に向けての話し合いなど

集落での取り組みやボランティアの支援活動の場としても

「集会室」が不可欠であると集落毎に集会施設を設置することにした。

そこがコミュニティの日常的な交流の場となり、

みんなで復興に向かう機運(モチベーション)を高めた。

 

集落ごとの仮住まいは、行政からの情報提供や連絡も、

平時と同様に集落代表から各世帯に迅速かつスムーズに伝えらた。

村や集落の復興の話し合いの連絡も集会もいつでもでき、

被災者の意向や要望は集落で共有して行政に届けられた。

この集落単位で仮住まいしたことが、

コミュニティのつながり(ソーシャルキャピタル)を維持・継続し、

被災者の心からの“戻ろう山古志へ”の復興理念となった。

 

震災の半年後に長岡市に合併することになっていた山古志村は、

集会室で集落ごとの復興構想の話し合いを繰り返し、

「山古志復興ビジョン」を取りまとめ、

4月の合併に際して、長岡市に山古志の復興の思いを届けることとなり、

山古志地域の復興理念として復興計画に位置付けられた。

 

それは「集落単位での、避難所避難生活、仮設住宅団地での共同生活のシームレスの展開」

によって可能となったものである。

このことが「仮設住宅50戸に集会室を設置する」仮設住宅での集会施設基準となった。

 

 

【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第7話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

172号 2024/4/12

山古志から能登半島地震による被災地のみなさまへ(2)

 

記録が紡いできた過去があり、今があるということ。

やまこし復興交流館おらたるが2013年度行った聞き取り、

及び作文集「38人がみた新潟県中越地震」を元に再編集しました。

 

言葉を足さず、当時の体験から生まれた事実と証言だけを時系列で並べることで、

その一つ一つが何かしらのメッセージとして、

被災地の方々の気持ちにつながるものとなれば幸いです。

 

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「避難所の、境のないくらしで感じたのは、みんな一緒だから頑張れるということ。」

避難所では一人暮らしだったため他の家族の間に入り、一緒に生活することとなった。

そこで感じたのは、自分だけではない、仲間がいるという思いだった。

(女性・当時50代)

 

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当時は学校給食の栄養管理士。

震災後は山古志に戻り、近隣の気の合う仲間(住民)とともに農家レストランを始めました。

 

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「錦鯉を避難させたが、放す池がないんだ。養鯉を再開するまでに、2年間もかかった。」

同業者の協力により被災した錦鯉を救出したが、池が破壊されて戻すことができない。

先が見えないなか、池の修復から始め、2年間は養殖ができないという苦闘の末、養鯉を再開した。

(男性・当時40代)

 

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山古志村には、錦鯉の発祥地として錦鯉の養殖が盛んな集落があります。

全村避難により錦鯉だけでなく牛など多くの家畜は集落のいたるところに取り残されたままでした。

中には、停電による酸欠や、地震の揺れによるショックが原因で犠牲となったものもあります。

 

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「全村避難、それは「やまこし再生」に向けた始まりだった。」

(長島忠美:当時の山古志村長。 2017年8月死去)

 

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「私はよそじゃ暮らせない。ここで生まれて山古志の土になる。」

(酒井省吾:前山古志村長)

 

【執筆】やまこし復興交流館おらたる 小池裕子(第3話)

171号 2024/4/11

高校1年生だった私の体験(5)10月25日

 

震災から3日目の朝、広神村が震源の余震が起こったように覚えている。

その日は幼馴染の伯母さんの自宅アパートに移動し、

居候させてもらえることになった。

 

余震や食料の心配はあったが安心して眠ることができて、

プライバシーも守られて有り難かった。

 

伯母さんのアパートは断水していたので、

地震が起きてからずっとお風呂には入られなかった。

 

自分以外の2人が外出している時に、また余震が起きた。

アパートの2階だったので建物が余計に揺れていた。

怖くてすぐ外へ跳びだせず、部屋の中で揺れが止まるのを待った。

 

【執筆】元 川口きずな館スタッフ・旧川口町武道窪出身 赤塚千明(旧姓 渡辺)(第5話)

170号 2024/4/10

中越地震と私(その6)

 

10月27日、震度6弱(小千谷では5強)の余震があった。

小千谷小学校の職員は三班に分かれ、これまで手の付けられなかった

理科準備室、教材室、図書準備室の片づけをしていた。

もとより家具が固定されていない部屋ばかり。

私がいた三階図書準備室では、大きな書架が辞典辞書の類を入れたまま、右に左に滑り動いた。

本震の記憶を思い出したのか、悲鳴を上げてしがみついてくる職員もいた。

 

揺れが収まり、玄関先で職員の点呼確認。

そして、顔を合わせた者同士、その時の状況や心境を口々に話し出した。

そんな時、「校舎内に戻って片付け作業の再開」との指示が出た。

張り詰めていた心の糸が切れる音がした。

 

無理もない。自宅が被災した多くの者は、日中学校で作業をし、帰ってからは家の片付けだ。

避難所から出勤している者も、知人宅に身を寄せて遠距離通勤となった者もいる。

夜間・休日の交代勤務もある。

地域の一員としての働きもしなくてはならない。

心身の疲れがピークになっていた。

この揺れで家に残してきた家族のことが心配だ。

そもそも怖くて、あの準備室に戻ることはとてもできない。

 

結果、泊り番となっていた職員を除き、ほとんどが年休を申し出て一斉に退勤した。

集団的で、群集心理のような不安定さを感じた。

このままではまずい。 (つづく)

 

【執筆】前見附市立見附小学校長 前日本安全教育学会理事 松井謙太(第6話)

169号 2024/4/9

地球の裏側で(その3)

 

地震直後に私が取らざるを得なかった行動は「顧客行脚」でした。

 

いくら日本の新潟県の地震の事であっても、主な顧客先の日系自動車メーカーのみならず、

米国メーカーであっても調達部門は状況を察知し、報告を求めはじめる様になりました。

 

数日かけてオハイオの工場はもちろん、イリノイ、インディアナ各州の自動車メーカーを訪ね、

長岡での被害のこと、そしてオハイオでの生産に問題が無いことを報告して回りました。

確信があっての大丈夫宣言ではありませんでしたが、

日米の関係者のお陰でお客様のラインを停める事はありませんでした。

 

結果的には大事に至らなかった訳ですが、もし被害がもっと大きく、

影響が長引いたならば、米国の自動車メーカーであっても、事情を汲み、

彼ら自身の生産計画を調整するなどしてくれたのではないか、と思います。

但し、早めの打ち上げがあれば、です。 

情報が命の訳ですが、メールでつながっていれば良し、ではなく、

頼れる人的関係が築けているかが問われているのだと振り返ります。

 

【執筆】中越市民防災安全士会 会長 岸和義(第3話)

168号 2024/4/8

長岡市災害ボランティアセンターの運営 ~神戸市の保健師との情報共有会議~

 

当時、長岡市の支援のため、全国の自治体から多くの職員が派遣されていた。

発災後、2~3週間が経過した頃であろうか、避難所の運営に関し、

長岡市の保健師と阪神淡路大震災を経験した神戸市の保健師との意見交換会が開催された。

そこに私も参加した。

 

最初は、お互いに、それぞれの話を聞いていたが、

そのうちに、長岡市、神戸市の保健師両者が涙ぐんでいるではないか。

 

震災支援の真っただ中で、長岡市の保健師は

人前では言えないストレスを抱えていたことが容易に想像できる。

また、神戸市の保健師は、阪神淡路大震災の当時を思い出し、

共通の思いをしたことが頭をよぎったのだろう。

 

震災経験者である当事者同士の集まりは有効と思った反面、

大丈夫か、この人たちはと感じずにはいられなかった。

しかし、時間の経過とともに、私もこの心境になるとは思ってもみなかった‥‥

 

【執筆】長岡市社会福祉協議会  本間和也(第6話)

167号 2024/4/7

救援物資のバザー販売

 

中越大震災では、救援物資の需要と供給の面では、

タイミングも、その量も大きくバランスを欠いていました。

 

救援食料は不足するより、余るほうが避難者にとっては良いのかもしれませんが、

小千谷市は12月26日に市内3ヶ所で支援物資バザーを開催し、

需要のなくなっていたアルファ化米、乾パンなどを含む食料、日用品雑貨などを

市民を対象として販売しました。  

 

当日、販売所を覗いたところ、他の自治体からの救援食料である

アルファ化米50食入りの箱に500円と破格な値段がついていました。

 

既に元の生活に戻りつつある時点では、残りの賞味期間が少ない事もあり、

1食当り10円でも人気はないように見えました。

このことは、非常食といわれる食品は、3年、5年という長期間の備置が求められる一方で、

避難者にとっては普段の生活では食べないものとされ、

おにぎりや菓子パンが届くと需要を失っているのではないかと感じました。

 

非常食は、蝉よりも命が短くて良いのか? 

普段の生活で非常食を美味しく食べる工夫が必要と強く思いました。

 

【執筆】一般社団法人日本災害食学会 副会長 別府 茂(第6話)

166号 2024/4/6

中越から能登へ ① ―コミュニティ単位の避難生活・仮住まいを―

 

22024年1月1日にM7.6の能登半島地震が発生した。

さと山さと海の地域づくりを進めてきた能登地域に壊滅的な被害をもたらした。

その復興への第一歩は避難生活に始まり、仮住まいが終了するのが復興した時となる。

 

奥能登の被災地と同じく、中越地震は山塊崩落により多くの集落を孤立させた。

とくに2か月後に積雪期を迎える山古志村は孤立状態では越冬できないと、

全村避難を決意し、ヘリコプターも使って長岡市に全員避難した。

 

当初は避難所(1次避難先)にバラバラに入居したが、

全村民が避難後に、コミュニティの助け合い・行政の連絡に便利などに加え、

高齢者等の移住ストレス(リロケーション・ダメージ)を緩和するためにも、

避難所間での再配置(避難者の移動)をして、集落で助け合うコミュニティ・ケアに取り組んだ。

 

その集落単位の避難集団のまま、

2ヶ月後(雪が降る前)には仮設住宅に転居して復興に向かうことになった。

 

超高齢社会に向かう今こそ、コミュニティ単位で、事前防災に取り組み、

災害に対応し、避難生活から仮住まいを経て、誰一人直接死として犠牲になることなく、

誰一人として災害関連死として犠牲者になることのない、

地域社会の再生にみんなで取り組むことが求められている。

 

【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 理事長 中林一樹(第6話)

 (新潟県中越大震災20年プロジェクト 実行委員長)

165号 2024/4/5

グレーな味覚

 

中越地震からの復興に携わった方々へのインタビューを始めてから4カ月が経ちました。

 

いろんな方とのお話の中で好きなのが、

本来なら違反になるようなことをどうにか誤魔化してやったり、

ちょっとあやしい方法で問題を乗り越えたりした経験談を聞くことです。

 

心なしか話している方も楽しそうな感じがしますし、

録音中のスマホを見ながら「これ公開しないでね」とお茶目に言うくだりは、

もはやどのインタビューでもお約束です。

ちょっとスリルがあったほうが人間は活き活きとするのでしょうか。

 

何事も透明性や正確性が求められる世の中ですが、グレーで雑なやり取りにこそ、

その人や地域の「味」が表れるのだなあと思いました。

その「味」が様々な人を惹きつけて離さなかったからこそ沢山の活動が生まれ、

中越は盛り上がったのだと感じました。

 

【執筆】大阪大学人間科学部人間科学科4年 共生行動論研究室 中村早希(第2話)

164号 2024/4/4

避難所管理(第4回)

 

避難所の運営もある程度落ち着いてくると見えてくるものがある。

朝と夜だけ炊き出しを行い、各家庭から1名ずつ出て、

当番制としてもらうことにしたのだが、参加しない家もあった。

避難所には来ないが、朝と夜ご飯だけ食べに来て仕事に行く住民もいた。

人間性を見た気がする。

 

しかし良いことも沢山あった。

避難所の暖を取るために常に焚火をしていたのだが、木材が不足したので、

心苦しかったが近くの倒壊した家の材木の提供をお願いしたら快く引き受けてくれた。

 

また、たまたま市の職員が県外での長期研修途中で戻っていたが、

「市役所に戻っても今は席がないので、避難所の管理を手伝え」と言われ、

私のサブとして働いてくれた。

 

前にも書いたが、小学校の創立記念式典の当日に起こった災害であり、

先生たちは自宅に帰らず避難所の管理をしてくれた。

私にはその時小学生の子供が2人いたが、

子供たちは林間学校のように楽しんでいたことが心を和ませてくれた。

 

半月ほど経った頃だろうか「そろそろ酒を飲んでもいいんじゃない」と

誰かが言い出して飲んだ酒は最高に美味かったことを覚えている。

(つづく)

 

【執筆】小千谷市にぎわい交流課 地域づくり支援員 石曽根 徹(第4話)

 元小千谷市地域復興支援員(小千谷市産業開発センター所属)

163号 2024/4/3

中越大震災発生!消防士だった私の体験談④

 

実家に戻ってきたのが19時15分頃。

車はベンチシートでフルフラットになるタイプ。

家族にしばらく車の中で過ごすよう伝えて車を渡し、徒歩で職場へ向かう。

 

叔母のことも気がかりだったので立ち寄ると、

私の実家に向かう準備をしていて安心した。

 

叔母の家は長岡まつりでお馴染みの長生橋の麓。

渡っている時に橋が崩れたら死ぬなぁ…。

800m弱、走り抜ければ3分。今なら迂回するかな。

当時はそうせず、結果、長生橋の丁度中間で再び震度6弱の余震…。

歩道にしがみつき、崩れないよう祈った。

 

橋を川西から川東へ渡り終え、草生津では雁木前で毛布にくるまっている人が大勢。

気持ち悪いくらいきれいな星空の下で、みんな不安で震えている。

 

まもなく消防署。空腹と体調が悪かったことを思い出し、

今はもうない長岡工業の側のセブン・イレブンに立ち寄った。

食べ物は既に無くて、1,500円の高級栄養ドリンクを3本買った。

不眠不休の戦いに突入だと覚悟を決めて。

 

 

【執筆】NPO法人ふるさと未来創造堂 常務理事兼事務局長 中野雅嗣(第4話)

162号 2024/4/2

被災地の人々(その2)

 

余震の中、倒壊した家の1階に人が居る。

人の手が必要。人々が避難した川口役場前に助けを求めた。

駆け付けていた小千谷市消防署川口出張所の瀬沼隊長ほか4名に助けを求め、

倒壊現場に急ぎ戻った。

 

消防士は倒壊した家屋の屋根に登った。

「チェーンソーを探して」の声に、避難していた渡辺昇平氏(渡辺建築)に協力を求め、

建築事務所へ。余震を恐れながらも、足の踏み場もなくなった作業場、

乱雑に崩れた工具類の中からチェーンソーを探し出した。

 

渡辺氏は消防士と共に揺れる屋根に登った。

繰り返す余震が、屋根の上の消防士達を激しく揺する。

彼らの救出活動は今も忘れない。

 

閉じ込められた二人の居る部屋の位置を特定できた事など、「近所の知恵」もあって、

助け出された二人は、翌朝、役場前駐車場の避難者となっていた。

 

【執筆】 中越市民防災安全士会 会員 吉原 昌隆(第2話) 

161号 2024/4/1

中越大震災20年プロジェクト進行中(2)

 

今日から2024年度(令和6年度)が始まりました。

新潟県中越大震災20年プロジェクトもさらにギアを上げていきます。

 

全国規模の学会が長岡市・新潟市で開催されます。

本プロジェクトとも連携した企画ができればと考えております。

 

○8月24日~25日 新潟開催

 日本災害食学会2024年度学術大会

 「中越地震20年:新潟から全国へ、さらに世界へ」

 

○9月16日~19日 長岡開催

 雪氷研究大会(2024・長岡)

 中越大震災に関する公開講演会を計画中

 

○11月8日~10日 長岡開催

 日本災害復興学会2024年度長岡大会

 中越大震災20年をテーマとした各種企画を検討中

 

○11月19日~20日 新潟開催

 日本災害情報学会第29回大会

 新潟地震60周年・中越地震20周年

 

自主企画としては(現時点)

 

◇復興評価・支援アドバイザリー会議(6/25)

◇中越市民防災安全大学 中越大震災20年公開講座(9/7を予定)

◇みんなの防災フェア2024(9/28-29)

 (主催者のみんなの防災フェア実行委員会、共催:TeNYテレビ新潟、長岡市)

 中越大震災20年の特別イベント・コーナーを企画中

◇中越大震災20周年行事/新潟県中越大震災20年プロジェクトグランドフィナーレ(10/23)

◇中越メモリアル回廊の各館でそれぞれ記念事業

◇県内5箇所で防災士養成講座を開講 中越大震災の講義あり etc.

 

これから賛同団体による事業も増えていくかと思います。

今後とも皆様のご協力、よろしくお願いいたします。

 

【執筆】公益社団法人中越防災安全推進機構 事務局長 諸橋和行(第2話)

160号 2024/3/31

北仮設と足湯(その4)

 

「Tさん亡くなったの聞いた?」

北仮設がなくなって1年ほどたったころだったでしょうか、

足湯に通っていた同級生からそうたずねられました。

 

彼女たちは、仮設がなくなった後も、足湯を通じて知りあった人とご飯を食べたり、

カラオケに行ったりしていました。

世代も随分ちがったのに、完全に友達という感じで楽しくやっていました。

私は集落に通うのが主になり、Tさんが亡くなられたことも知りませんでした。

 

Tさんも足湯を通じて知りあった方で、すこしさびしがりやで、

彼女たちが足湯から帰った後は、大好きな演歌歌手のポスターがはられた仮設の居間で、

寂しいとよく泣いておられました。

 

亡くなったことを友人から聞いて、驚くとともに、

ああ彼女たちは「看取り」までやったのかもしれないなあ、と思いました。

Tさんの最期がどのようなものだったか知りませんし、

彼女たちもそこに立ち会ったわけではありません。

けれど、まさに最期に立ち会えなくても「看取り」はあるんじゃないかと思ったのです。

 

だから、仮に北仮設での「コミュニティづくり」が足湯を通じて行われたのだとしたら、

それは物理的な仮設住宅の中にとどまるものでもない、

仮設がなくなったあとも、またそこにいらっしゃった方が亡くなった後も

存在する「コミュニティ」なんだと思います。

 

【執筆】大阪大学大学院人間科学研究科 准教授 宮本匠(第4話)

159号 2024/3/30

今考えて思うこと(第5話)

 

被災直後、伏し目がちに過ごす住民の方や子ども達を見ながら、

子ども達や地域のために、学校ができることはないのだろうかと考えるようになりました。

そして、家を失い地域を失った子ども達に未来を考えさせることで

新たな希望を描いてもらえるのではないと思いました。

 

しかしそのような学習プログラムは日本はおろか世界にも存在しません。

一から作る必要がありました。

 

そこで、私の中学校時代の恩師であり社会科体験学習の第一人者であった

小森ケン子先生に相談に行きました。

先生はすでに退職されていましたが、一緒にやりましょうと力強く言ってくださいました。

 

さらにその構想を当時校長をされていた藤林壽一先生に話すと、

理解し支援してくださり、学習プログラムを「太田学」と名付けてくださいました。

その後、太田中学校の総合的な学習の時間は太田学で進められました。

 

後年、学術誌に投稿しましたが、この学習によって子ども達の心理的ストレスが軽減され、

精神状態が安定した事が確認できました。

子ども達がメンタルに問題を抱えた時の対応として、

カウンセリング等の受動的対応は必要ですが、

主体的に行動する能動的対応も同じくらい重要なのだと思います。

 

個人的感想ですが、能動的対応の方がより有効だと思いますが、

そういった対応が未だ社会では認知されていないように思います。

 

【執筆】長岡工業高等専門学校 非常勤講師 五十嵐一浩(第5話)

 (前三条市立第四中学校 校長)

158号 2024/3/29

図書館との連携(その2)

 

メモリアル回廊は長岡市、小千谷市、旧川口町、旧山古志村と各地に施設を検討していました。

点在する施設に人々が周遊できるか想像できませんでした。

単純に一筆書きをしても100kmを超える回廊です。

 

そのため被災地連携企画展を企画し、試行的に各施設予定地で展示会を実施してみました。

この連携企画展は様々な団体、企業にも参加していただき、

メモリアル回廊のオープンまで続けました。

この企画展に合わせて実施したスタンプラリーやバスツアーも満員御礼の状況であり、

メモリアル回廊の構想についても手ごたえを持てるようになりました。

 

アンケートなどから、周遊した人たちの充実感も知ることができました。

地域を周遊させること、施設が複数点在していてもきっとうまくいくと考えることができたのも、

地域の参加、連携と協働があったからだと考えています。

 

メモリアル回廊の整備は、地域との連絡調整が問われた仕事でもありました。

前例がないことも多く、そのためやりがいもありました。

他機関と連携することに大きな意義を感じ、多くの人を巻き込むことができました。

 

中越メモリアル回廊の運営が始まる前に、こういった試行的な事業を多く行い、

地域の人たちがどういったことに関心があるのか、

我々が進めたいことと地域がしたいことに温度差がないのか確認することにもつながりました。

ニーズ調査的な事業を重ねたうえで、

メモリアル回廊整備事業に取り組めた意味は大きかったと思っています。

 

【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第8話)

 (元中越メモリアル回廊担当職員)

157号 2024/3/28

図書館との連携(その1)

 

メモリアル回廊整備では展示施設をつくるだけではなく、

展示する震災の記憶、つまり資料保全・収集にも取り組みました。

 

中越防災安全推進機構はその分野では素人です。

さらに収蔵庫も持たないので事業をどのように進めるべきか頭を悩ませていました。

 

すでに長岡市立中央図書館文書資料室では災害関連資料を収集し、

小千谷市立図書館でも震災の翌年に震災関連資料の展示を行なっていました。

他機関、ましてや自治体を超えた施設間の連携はなかなか進まないことを

阪神淡路の被災地での経験として聞いていました。

ならば施設ができてから連携するのではなく、準備の段階から連携したいと考えました。

 

県立図書館の司書さんから紹介をいただくなどして、

人的なネットワークに私も加えていただき、

組織としてのネットワークも広げていきました。

(その2へ続く:明日配信)

 

【執筆】福島県立博物館 主任学芸員 筑波匡介(第7話)

 (元中越メモリアル回廊担当職員)

156号 2024/3/27

第6話 東川口町会への参画

 

家族と一緒に新居に居住し、自宅から小千谷市の事業所に通勤する生活が3年間続いた。

この間に中越沖地震が発生し対応に追われ、ひと段落したころ、

東京への転勤辞令を受けとった。単身赴任となった。

 

単身赴任もそう悪くはなかった。

週末に新幹線で帰宅し家族に会い、また東京に向かった。

仕事も充実し、東京下町の夜間俳諧も楽しんだ。

単身赴任は4年続き、この間に父が他界した。

中越地震を契機に川口町に戻り、短い間だったが一緒に暮らしたことが

父への唯一の親孝行だったかもしれない。

 

東京に戻って3年、定年の文字が見えて来たところに思いもよらぬ事態が起こった。

東日本大震災が発生した。対応に追われた、会社が存続しないかもしれないと思った。

弱音を吐くと、妻から「アンタ一人ぐらい、私が何とか食わしてやるさ。

とりあえず、今はがんばって」と言われた。

空威張りでも嬉しかった。

 

単身赴任が解消される頃、

現東川口町会会長から「町会の庶務をやってくれないか?」との誘いを受けた。

「どの程度の仕事のボリューム感ですか?」と尋ねたが会長は明言を避けた。

今、思えば名言を避けた理由がわからぬでもない。

とりあえずやって見ることになった。

東川口町会への参画が、私の防災活動の入口を開いた。

 

【執筆】東川口町会 庶務 上村光一(第9話)

155号 2024/3/26

「道の駅」が災害時に果たす役割と中越地震(その2)

 

道路寸断がいたるところで起き、余震が繰り返し押し寄せた中越地震では、

倒壊の恐れがない避難所の確保と救援物資をどう届けるかが課題だった。

そして、十日町市の道の駅「クロステン十日町」には、

地震発生直後から地域の方々が次々と避難してきたという。

 

発生時刻は午後5時56分。

折からの停電で間もなく闇に包まれた十日町市の中心街で明かりがしっかりと灯っていたのが、

自家発電装置を備えた「クロステン」だったそうだ。

間もなく避難者の“駆け込み寺”になり、しばらくすると、

広い駐車場に支援物資が届くようになっていったのだった。

 

その後、併設の温浴施設にお湯が張られ、被災した人たちの心と体を温めた。

さらに広い駐車場には仮設住宅も建設され、地域の復興を支えた。

中越の地で、手探りで続いた道の駅の防災拠点としてのノウハウは、

東日本大震災、熊本地震、北海道胆振東部地震などの被災地に受け継がれていった。

 

最大震度7の地震発生から5週間が過ぎた能登半島では、道路の復旧が少しずつ進み始めている。

支援物資の中継拠点としての役割を道の駅が担い始めたことを、

先日、ボランティアで被災地に入った知人がメールで伝えてくれた。

 

 

【執筆】読売新聞所沢支局長 堀井宏悦(元テレビ新潟放送網 監査役)(第5話)

154号 2024/3/25

中越地震、その時何が(その4)

 

中越地震で全国各局の応援取材班を受け入れることに際しては

阪神淡路大震災での取材経験が大いに役に立った。

 

自分は発災から3日目に現地の応援取材に入ることになり、

大阪の準キー局であるYTV読売テレビに向かう。

ここが日本テレビ系列のニュース取材の本部となり、

24時間体制で番組の放送を続けていた。

 

報道局のデスクから現地への入り方や取材の指示を受ける。

道路が使えないため、大阪港の天保山の岸壁からチャーター船に乗り込み神戸港に向かった。

 

小一時間ほど乗っていただろうか、右手前方に神戸港が見えてきた。

港のガントリークレーンがことごとく倒れているのが見える。

凄まじい地震の爪痕を目の当たりにして身震いしたことを覚えている。

当たり前だが、これほどの大災害を取材した経験はない。

結果的に6千人以上の方が犠牲になり、

太平洋戦争以来の悲惨な現場といっても過言ではない自然災害であった。

 

下船して神戸の取材拠点であるビルの一室に向かう。

ここは広告会社・大広の神戸事務所であるが、ご好意でNNN取材班の拠点として借りていた。

ビルの電気は大丈夫だったがトイレはまともに使えず、

溜めた僅かな水で流すことを強いられる。

 

しかしこの後、神戸市内の避難所でトイレの悲惨な状況を目の当たりにし、

我々取材班の生活環境は遥かに恵まれていることを知ることになる。

 

【執筆】株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第4話)

 (元株式会社TeNYサービス 取締役)

153号 2024/3/24

被災者のパワーを引き出す復旧・復興!-市長としての心がけ(7)

 -中越大震災復興ビジョン-

 

地震発生の翌年3月には、早くも「新潟県中越大震災復興ビジョン」が公表された。

ビジョンにはこう記されている。

 

「復興によって被災者がどのような生活に戻れるのか,

それをいつまでに実現するのかについては,

被災者が生活再建にどのような夢と希望を持つことができるかということに大きく依存する。

それを決定するのは被災者自身である。」と。

そして、旧を踏まえつつその上に新たなものを生み出していくこと、

これを“創造的復旧”と名付け、究極の目標を明示している。

 

私は、この“創造的復旧”という言葉に感動した。

この考えを強く打ち出されたのは、長岡造形大学の平井邦彦先生だった。

 

①震災メモリアルパークと関連施設の整備やイベントの開催、

②震災アーカイブスやミュージアムの整備と被災地へのサテライト配備を

目標の一つとして明示したのである。

 

復興ビジョンでは、被災地が次第に荒廃していくシナリオの【記録1】と

被災地が創造的復旧を果たす【記録2】の2つのシナリオを明示した。

そして、【記録2】には、【今や中越地方では,最素朴と最新鋭が絶妙に組み合わさって

都市と川と棚田と山が一体となって光り輝き,2004 年新潟県中越地震は

「日本の中山間地を再生・新生させた地震」として記録されようとしている。】と結ばれている。

 

また、 防災・安全に関する学問・研究(官民連携)として、

①市民安全大学の開設と②地方災害総合研究センターの設置が提案されているが、

この提案は、(公社)中越防災安全推進機構とその事業として実現させることができたのである。

 

【執筆】前長岡市長/(一社)地方行政リーダーシップ研究会代表理事 森民夫(第7話)

152号 2024/3/23

中越大震災をアーカイブする(第3回)

 

平成17年(2005)2月12日、

新潟大学人文学部附属地域文化連携センター主催の

シンポジウム「新潟県中越地震からの文化遺産の救出と現状」が

新潟大学で開催されました。

 

このシンポジウムで、

長岡市立中央図書館文書資料室の取り組みを報告する機会をいただきました。

震災から間もなく4か月。大雪の長岡からゴム長靴を履いて出かけたら、

五十嵐キャンパスは、雪が少なくて、とても驚いたことを覚えています。

 

この頃には、文書資料室の「災害対応の二本柱」は、

「被災した歴史的資料の救済」と「震災関連資料の収集」

に定まっていました。

 

シンポジウムでは、この「二本柱」の現状と課題を報告。

緊急性が高く、先行していた被災歴史資料への取り組みが中心でした。

長岡市史編さんの経験をもとに行った

歴史資料の所在地図作成と廃棄防止の呼びかけ文書などです。

 

このシンポジウムの記録集は、

矢田俊文編『新潟県中越地震 文化遺産を救え』

(高志書院、2005年6月発行)として刊行されています。

 

記録集には、震災直後にお世話になった方々、

そして、試行錯誤しながら一緒に取り組んだ同僚の名前が記されています。

20年を経て、こうした人のつながりがあったからこそ、

始めることができた取り組みだったことも、

「中越大震災のアーカイブ」として、後世に伝えておきたい、

そんな思いに駆られています。

 

【執筆】 長岡市歴史文書館 館長 田中洋史(第3話)

151号 2024/3/22

中越大震災をきっかけに、土木技術者になろう!と思った仲間たちの話し(K林君の場合)

 

私が小学1年生の頃に新潟県中越地震が発生しました。

自分は当時、新潟市に住んでいましたが、大きく揺れて物が倒れたことが記憶に残っています。

その後、テレビで報道されて大きな被害が発生したことを子供ながらに衝撃を受けました。

 

私の父も土木技術者であるため、揺れが収まってからすぐに家を出て、災害対応をしていました。

 

そして中学生になった3月11日に東日本大震災が起こりました。

 

3月11日からの報道を見て、甚大な被害が発生していることはその当時の自分でもわかりました。

このときから土木という仕事を意識し出しました。

 

私たちが何気なく送っているこの日常において、いつ起こるかわからない自然災害に対し、

県民の生活を守っていきたいと考えるようになり、土木職員という仕事を目指しました。

 

今では私も、誇りを持って災害対応をしている土木技術者の一人です。

 

【執筆】新潟県土木部(十日町地域振興局地域整備部) 太田あみ(第2話)