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343 中越地震との関わり

関西大学社会安全学部・大学院社会安全研究科 菅 磨志保(第1話)

 
その日は土曜日だったが、週明けから始まる職員研修の準備もあって仕事モードだった。
せめて「美味しい物でも食べよう」と思って三ノ宮にいた時、
携帯が鳴って「招集」がかかった。

当時私は、神戸にある「人と防災未来センター」という
阪神・淡路大震災の伝承施設と研究所が一緒になった施設で働いていた。
そして翌週からの1週間、行政職員の災害対応研修を運営することになっていた。
招集の理由は「新潟県で大きな地震が発生した」ことだった。

このセンターでは、職員研修以外にも、
被災自治体を支援する人員を派遣する支援事業も行っており、
急遽、被災地への支援体制を組むことになった。
そこで、翌週からの職員研修をどうするかが問題になったが、
「おまえ一人で何とか対応しろ」という上司の命令で実施が決まり、
私以外の研究員は3日前に発生した豊岡市の水害と、新潟県中越地震に分かれて、
被災地対応をすることになった。

新潟県中越地方は、4カ月前も水害で被災していた。
センターで「ボランティア」の分野を担当していた私は、
その「水害ボランティアセンター」を訪問していたので、
当時お世話になった人達のことが気になったが、研修に集中せざるを得なかった。

その研修も、受講者だけでなく講師からもキャンセルの連絡が入り始め、
講師から資料をもらって私が代講するような事態も発生し、
被災地のことを考える余裕はなくなっていった。

そんな研修が終盤に近づいた日の夜、中越の知人から電話が入った。
「今、体育館の避難所。目の前に3000人の避難者がいる。
神戸では大規模な避難所をどうやって運営していたの?
開設から閉鎖までのプロセスを教えて」というのが、電話の内容だった。
これが新潟県中越地震との最初の関わりだった。

関西大学社会安全学部・大学院社会安全研究科 菅 磨志保(第1話)