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264 7.13水害の体験談 見附市内の工場に勤務されていた安達さん(その2)

株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第5話)

 

※7月13日(本日)で、7.13水害(新潟・福島豪雨)からも20年をむかえます。
 本文章は、7.13水害の体験談として、7.13水害から5年後の平成21年に
 地域の方々にヒアリングし、信濃川大河津資料館にて紹介したものを、
 読みやすく調整したものです。

「家に上がりなさい!」と声を掛けてくれたのは民家の方でした。
無理に工場に戻ろうとしていたら今の自分はいないでしょう。
民家の方へのお礼にと畳上げを手伝うなどして被害を最小限にしようとしました。
水勢は衰えることなく暫く避難させていただくことに。
その際にお茶をいただいたり、おにぎりをいただいたり、
電話をお借りしたりと、本当にお世話になりました。
そして、このとき1人でなかったことは精神的に大変助けられました。
 
道路を流れる水の勢いが弱まったのは22:00頃だったと思います。
これまでの間に、何回か会社や自宅に連絡を試みたのですが全く繋がりませんでした。
そこで、会社に向かおうとしたのですが真っ暗の中で浸水深が深く身の危険を感じたため、
まずは高台に向かい公民館へ避難しようと決めました。

避難させてもらった民家から公民館までは歩いて20分程度なのですが、
このときは60分程度かかりました。
やっとの思いで公民館へたどり着くと既にたくさんの避難者がいました。
無料の公衆電話に列ができ、私も自分の安否を家族へ伝えるべく家へ電話しました。
ベル音が鳴り、やっと繋がったと思ったのですが誰も出ません。
このとき家族も避難していたのでした。
 
翌日6:00頃目覚め、自分の車を取りに向かいました。
救命ボートがあちこちで動いている様子が見える中、
泥水をかき分けながら車にたどり着き、キーを回すとエンジンがかかりました。
シートはグシャグシャで泥をかぶっていたのですが、助かったと思いました。
ところが500mほど走らせるとエンジンがストップし、それきり車は動かなくなりました。
結局、車は諦め、工場に向かおうとしたのですが、
関係者以外立ち入れない地域となっていて、もっとも浸水しているため先へ進めず、
工場に向かうことも諦めました。

この頃、やっと家族と連絡を取ることができました。
家族にしてみれば、工場にもいない、連絡も取れないということで、
相当に心配したらしいです。

浸水が引いた数日後に工場に行くことができたのですが、
そこには目をそむけたくなる光景が広がっていました。
(その3へつづく・明日配信)

株式会社エコロジーサイエンス 樋口勲(第5話)