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236 中越大震災の体験-外国籍市民の声-(その7 アメリカの留学生) 「長岡の新しいフェニックスの炎(2)」

「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第8話) 協力:国際交流センター「地球広場」

 

しばらくすると、学校以外でも電気と水が不足していることがわかりました。
学生たちは絶望的になり、何をすべきか分かりませんでした。

大きな問題のひとつは日本語を理解する力が不足していることと、
話すことができないことでした。
私はその時点では複雑な日本語を理解できるレベルには達していませんでした。
英語で理解できるニュースは何もなく、
そしてその時はニュースを通訳してくれる友達もいませんでした。
日本の学生でさえもが大変混乱していました。

その夜は屋外や車の中で寝ることにしました。
警察と消防員はとても対応が早く、すでに次の日には、
そのエリアにいた学生全てのグループに受け渡すだけの配給を用意していました。
友達と私は寒い外で夜を過ごし、10分から15分ごとに起こり、
止むことのない揺れにより、ほんの少ししか眠ることができませんでした。

何日か経ち、私は屋外で過ごすことに大変疲れてしまい、
寮の部屋に戻ることを決心しました。
私たちは、そこが安全かどうか分かりませんでしたが、
その時はそんなことなど気にしませんでした。
地震への恐怖心よりも、疲労のほうが強かったのです。
人々は大きなドアの側に寝たりして、
地震が危なくなったらすぐに逃げられるような場所に寝場所を確保しました。
(明日へつづく)

【執筆】
 「母国語でつづる中越大震災の記憶」より抜粋紹介(第8話) 協力:国際交流センター「地球広場」