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112 中越地震、その時何が(その3)

株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第3話)(元株式会社TeNYサービス 取締役) :

 

長岡支社には全国からの取材班が次々と訪れ、現場へ出かけて行った。
ここを拠点に情報収集や資料のコピーを始め、食事や水の補給、仮眠など、
取材班の最前線基地として機能し始めた。
土地勘がない取材班のため、道順や行き方などを教えることも多かった。

しかし、この間も大きな余震が度々発生。
ビルの管理事務所から避難命令のアナウンスが入り、
6階から階段を何度か駆け下りることになった。
ビルから出た後、真下はガラス窓等が落ちてくる危険性があるため、
反対側の歩道まで避難しなければならない。
真上からの危険物の落下は盲点でもある。

自分が単身赴任していた今朝白のワンルームマンションは、
電気やガスなどのインフラが止まり、半壊扱いで入ることができなくなった。
このため、自分たちで用意した支社の隣の貸布団で寝ることになった。
仮眠部屋での1週間の避難生活を余儀なくされた。

しかし、テレビ中継で見る各地の体育館は避難者でごった返していて、
そんな避難所に比べれば、電気も水道も使えて、
トイレも自由に使える自分は遥かに恵まれていた。

今も続く「体育館でごろ寝」の避難所を見るたびに、
日本の災害対策のお粗末さに怒りを通り越して悲しくなってしまうのは私だけだろうか…。

 

【執筆】
 株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第3話)  (元株式会社TeNYサービス 取締役))