中越市民防災安全士会 会長 岸和義(第1話) :
地震が起きた時、私は長岡の自動車部品メーカの米国工場の責任者として
オハイオ州で生活をしていました。
住んでいたアパートでは日本のTVは契約しておらず、
日本人駐在員からの一報で大変なことが起きた事を知りました。
インターネットの情報で、尋常でない事態が起きつつある事を感じながらも
長岡で何が起きていて、起こりそうなのか等、
具体的なことを想定するには数日掛かった様に思います。
当時400名ほどの工場に10名程度日本人駐在員がいましたが、
それぞれのネットワークで家族の無事の確認と被害状況の確認を行い、
中にはすぐにでも小千谷に駆けつけたい、との申し出もありましたが、
新機種の生産開始が間近などの理由で帰国を断念してもらった事が思い出されます。
非情な事をしたものだと思いますが、その時は、
何が起きようとも、米国の生産を止めない事が唯一無二の使命だった訳です。
【執筆】
中越市民防災安全士会 会長 岸和義(第1話)