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082 仮設住宅の計画に生かされた阪神・淡路大震災の教訓 -神戸からみる中越地震の復興の意味(4)-

1995年に発生した阪神・淡路大震災から9年、
次の最大震度7を計測した中越地震の被災地には、神戸からの多くの支援が行われました。
その中には、神戸での苦い経験から培われた教訓も含まれています。
その一つが仮設住宅の計画と提供の方法です。

阪神・淡路大震災では、多くの建物が倒壊しただけでなく、
各地で発生した火災が延焼し、面的な被害となりました。
住む場所を完全に失った多くの被災者が避難所でつらい思いをする中、
仮の住まいとしての仮設住宅の供給が急がれました。
ただ、供給を急ぐあまり、建設できる場所の選定や入居者の選定は
十分に吟味されたものではありませんでした。

もともと住んでいた場所とは遠く離れたニュータウンや、
埋め立てによりできた人工島などに建設された仮設住宅は、
一気に入居希望者用のすべての住宅を用意することはできませんでした。
そのため、入居者の選定は、高齢者、配慮の必要な方を優先に、
抽選で決める、という取り扱いになりました。

結果、被災された方は、馴染みのない土地に、周りも知らない人だらけ、
という環境で仮設住宅ぐらしをはじめることになりました。

結果、引きこもりがちになる人も増え、それがいわゆる
「孤独死」の発生につながってしまいました。
こういった教訓は中越地震直後に新潟に伝えられました。

結果、集落ごとの入居ができるような仮設住宅計画が検討され、
地域によっては、隣り合う世帯の組み合わせまで考慮した建設計画へと繋がっています。

山古志村の仮設住宅が建設された長岡ニュータウンの3箇所のうち、
陽光台仮設団地には、村内の郵便局や駐在所も併設され、仮の住まいではあるけれど、
なるべく元の生活に近い環境を整えようという意図が明確に現れることになりました。
そのことで、集会所も有効活用されただけでなく、みんなで助け合って暮らしながら
ふるさとへ戻る気持ちを維持する、ということにも繋がっています。

 

【執筆】
 兵庫県立大学大学院 准教授 澤田雅浩(第4話)
 (長岡震災アーカイブセンターきおくみらい 館長)