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076 中越地震、その時何が(その2)

幸運なことに、支社が入っているDNビルは電気も水道も支障がなく、

通常通りの業務が可能だった。

支社のメンバーに携帯で連絡し、安否確認と同時に、

被災状況次第ではあるが可能であれば出社して欲しいと連絡する。

明日からの業務と報道のバックアップ体制をどうするかが課題だった。

 

結果的に支社長以下5名全員が集まり、明日からの体制について協議を重ねた。

長岡支社には全国から多くの取材班が集まることが予想されるため、

食料と水の確保を最優先に手配することになった。

 

たまたま支社の隣のテナントが空いていたため、急遽借りられることになった。

ガランとして何もない部屋に貸布団を20組ほど運び入れ、休憩場所にすることができた。

取材班は徹夜での取材が続くため、仮眠できる場所が必要だった。

 

自分も1995年の阪神淡路大震災の応援取材に入った際、

神戸港近くの事務所の床に毛布を敷いて1週間余り寝泊まりしていたことを思い出す。

まさに着の身着のまま、薄汚れたワイシャツでニュースのリポートをしていた。

大災害の時、テレビは朝から深夜まで番組の放送が切れ目なく続く。

現場の記者は睡眠時間が殆ど取れなくなってしまうのだ。

 

【執筆】
株式会社夢プロジェクト 坂上明和(第2話)(元株式会社TeNYサービス 取締役)